はじめての鉄道写真(先史遺跡発掘シリーズ その6) -1964年9月-


写真の歴史を振り返ると、ダゲレオタイプの頃はポートレート中心、乾板が発明されてジャーナリスティックな記録に用いられるようになり、フィルムが実用化して芸術に表現する作品としてのポジションを獲得してきたことがわかります。とはいえ、写真の記録としての側面は、その創成期からあり、初期のポートレートも、当時の人々の風俗の記録として、今となっては貴重な資料となっています。発見された例のネガの中には、ぼくにとっての最初の本格カメラ、「オリンパスペン」を入手してすぐに撮影したモノもありました。鉄道好きの少年らしく、その中には鉄道に関連したカットもいくつか見受けられます。その内容から考証すると、撮影日は1964年9月と判明しました。そう、時は東京オリンピックの一ヶ月前。オリンピックは見に行きましたので、オリンピックがらみでカメラを買ってもらったものと思います。何と39・10以前の鉄道風景。ぼくが撮ったものでは、これ以上前のモノはありません。そんなルーツ中のルーツとも言える、「はじめての鉄道写真」にお付き合いください。今回はシーケンスがわかっているので、撮影した順番のコマ割りで進めます。



写真だけ出すと、一体どんなガキが撮っていたのかわからないでしょうから、最初から面割れで行きます。この時は、小学校3年生。9月だとまだ誕生日が来ていないので、8歳ですね。この子が撮った写真ですので、クォリティーについては、大目に見て下さい。猿が撮っても、何かが写っていて、撮影日時や場所がわかっていれば、それは重要な記録になります。まして子供とはいえ、それなりに鉄道好きで雑誌とか読んでましたので(ほとんど、趣味誌で漢字や熟語を覚えたのではないか)、何らかの意図は入っていますし、その分記録性はあるのではないでしょうか。もちろん、このカットは父に撮ってもらったものです。オリンパスペンには、セルフタイマーはありません(笑)。今回は、撮影時期が古いだけに、驚くべきモノが写っていたりしますので、乞うご期待。


この時は、父の仕事関係の慰安旅行で三浦半島に行くのに、同行させてもらったもので、旅行自体は断片的に記憶に残っています。万年カレンダーで調べると、9月で土日の旅行に行けたということは、二学期の始業式の前でまだ夏休みだった、1964年9月5日(土)6日(日)ということがわかります。それでまだ夏の格好なんですね。写真は、3扉平妻なので、横須賀線のクモハ51形式です。撮影場所は不明ですが、看板からすると逗子駅でしょうか。この時は、ぼくは父のクルマに乗って第二京浜-横浜新道をドライブして行ったので、電車で帰る人を駅まで送ったタイミングではないかと思います。これが正真正銘、はじめて鉄道を写したカットということになります。


このカットは、コレだけ見ると判じモンですが、けっこう貴重な記録です。今も昔も、直上で高架化する工事を行ったところでは、開通直後はこういう風景ですから、どこかというのがポイントです。ネタをバラしてしまえば、場所は高円寺。この区間の中央線が高架化されたのは、39・10のダイヤ改正を控えた昭和39年9月22日。すでに線路が閉鎖されていますので、これはそれ以降ということになります。明らかに日中の外出ですので、コレも休日。これまた昔のカレンダーを参照すると、それ以降の休みは、23日の秋分の日と、27日の日曜日しかありません。次にもう一度休日の外出がありますので、この日は9月23日(水)の秋分の日ということになります。まさに、高架化した翌日の姿です。ところで、この視点の位置は、子供の身長よりさらに低いですから、明らかにかがんで腰を下げて撮影しています。なんか、思うところがあったんでしょうね。


続いて、高円寺北口商店街の様子を撮ったカットがありました。実は、ぼくが生まれたときには高円寺在住で、二歳半ぐらいまで住んでいました。さすがにほとんど記憶がないのですが、この時ぐらいの頃までは、北口商店街のクネクネとクランクした街並みを抜ける時に、何か妙なデジャブ感を感じたことを覚えています。多分、歩き始めの頃に、両親に引きずられるようにして、商店街の中を必死に歩いたことをどこかに記憶していたのでしょう。それにしても、これが昭和39年、オリンピック直前の高円寺です。店の看板やネオン、商品のディスプレイは、戦前の光景とほとんど変わりません。三人組の女性も、向かって左のチェックのスカートの女性こそ昭和30年代っぽいですが、あとの二人はそのまま昭和20年代に現れてもおかしくないほど「終戦後」してます。


ここから日付が変わります。この先に出てくる写真の内容から、これを撮影したのは9月中ということがわかります。おまけに、またもや日中の撮影ですから、この日は休日。となると、のこりは9月27日の日曜日しかありません。この日付がわかっていることが、けっこう重要な発見につながります。このカットは、東中野駅付近を通過する、中央本線のキハ58系急行。見返りショットですが、テールライト周辺の赤色リングが時代を感じさせます。この時期はまだ、中央本線に電車急行はありませんでしたがら、文字通りディーゼル急行の天下。しかし、この一年後には中央本線の急行といえば165系の時代になり、二年後には特急「あずさ」が登場することになります。東京の風景も、日に日に変化していましたが、国鉄の近代化も、恐るべきスピードで展開していたことがわかります。


この日は、なにか都心部に用事があり、親と一緒に出かけたようですが、入手したてのカメラが嬉しくて、肌身離さず持って歩いていたようです。山手線に乗るべく、5番線6番線ホームに登ると、9番線には151系の特急が入線していました。1等車の「1」の文字も、凛々しく輝いています。パンタなしの1等車が2輌連なっていますので、どちらかはサロ151形式でしょう。さすがにサボは読み取れませんが、超拡大してみると、列車名はどうやらひらがな2文字のようです。となると「はと」でしょうか。確かに、下りの「はと」号は、東京駅13:00発でしたので、つじつまが合います。在来線の東海道本線を行く151系特急も、あと4日。新幹線開通直前、最末期の「こだま型」電車特急の姿です。ちなみに、そのもう一つ向こうのホームとの間に機廻り線があり、それが11番線なので、東京駅のホームには11番線がない、というのは、当時の鉄道ファンには常識とも言えるトリビアでした。


今回最大の、問題カット。浜松町付近で貨物入換をする、8620型蒸気機関車。走行中の山手線の車内からの撮影です。汐留貨物駅や芝浦貨物線では、B6の後を継いで、品川機関区の8620形式が、昭和30年代後半になっても使われていたのは知られています。しかし、この日はすでに見たように、昭和39年9月27日。配置表を調べると、品川機関区は昭和39年4月から首都圏地区のDD13の集中配備区となり、8620形式の配置はなくなっています。これが今回のコンテンツを制作する上での、最大のボトルネックとなりました。ほとほと困って、松本謙一さんにご相談したところ、入換機関車は検修の便などを考え、実際の使用地と配置先が異なることが多かったことと、貨物駅や専用線では、軸重や横圧から、当初ディーゼル機が入線できないところもあったことを示唆していただけたので、DD13の集中配備後も残った8620は、横浜機関区に転属の上で、品川機関区をベースに汐留で使用されたものと推定しました。ナンバープレートは、形式入りであることはわかるのですが、番号が読めません。最後の数字は0のように見えますので、適合する機番を選ぶと、28640号機というのが出てきます。「機関車表」によると、8/31または10/5廃車となっていますが、これがもし現車ということになると、10/5ということになるのですが、その前に、もっとちゃんとした写真と装備を比較して、機番を正確に比定しなくてはいけませんね。このカマ自体は、かなり特徴ある形態なので、写真さえあれば番号の特定はたやすいと思います。これが、ぼくが生まれて初めて自分で撮った、蒸気機関車の写真です。


続けて、浜松町-田町間を行く新幹線0系。ドア配置を見ると、これは上りの先頭車のようです。先頭部は欠けていますが、良くぞ先頭車を撮影できたものです。とはいえ、さっき東京駅には、151系の特急「はと」がいました。そうです。この時期は、目前に迫った開通を前に、新幹線が本番同様の試運転を行っていたのです。車窓には、けっこう乗客が見えますが、この時期の試運転列車には、試乗客が招待されていたのでしょう。ブレてはいますが、初期の新幹線特有のサボも、ちゃんと入っている様子が見て取れます。転じて、上方には東京モノレールの路線。先ほどの8620形式の写真でもそうですが、東京モノレールは、新幹線に先立つ昭和39年9月17日の開業ですから、この時はもう営業していたことになります。実は、この「はと」、ハチロク、新幹線のカットは、ネガ上では連続しています。去るものと来るものが、あわただしく交錯する、鉄道史の激動する一瞬ということができるでしょう。


ここから2コマは、山手線の先頭車からの「かぶりつき」カット。まずは、目黒駅での外廻り発車シーン。向こう側から、内廻り電車がやってきます。しかし、駅の周辺であっても、線路の両側は全くの住宅地。ビルが立ち並ぶ今となっては、コレは一体どこ、という感じです。おまけにこの区間は山手線に蓋がされて、その上にさえビルが建つ始末。103系も、こんな時代から走っていたワケですから、寄る年波には勝てないわけです。しかし、ファーストナンバーって、つい最近まで、JR西日本で現役でしたよね。まあ、クモハ42も、あれだけ長きに渡って使った会社ですからね。


続いて、恵比寿駅に停車する山手線外廻り電車の運転台。インパネのキレイさが、まだまだ103系が新鋭だったことを物語ります。ホームに目を転じると、和服の女性といい、「背広」姿の男性といい、戦前そのままの着こなし。木造のホームの屋根にしろ、下見板張りの階段にしろ、今の山手線恵比寿駅からは想像すらできない、池上線のような風情。階段の位置を考えると、ホームそのものも延長前ですね。ガードの下の駒沢通りの信号も、緑と白に塗り分けられた「光背」がまだついています。これだけで、大時代的な感じがします。三菱銀行だけがビルディングで、渋谷まで、ほとんど大きな建物もなく見通せています。この頃はまだ、恵比寿や目黒は、郊外だったんですね。うっすらと、貨物列車が見えていますが、さすがに細かいことはわかりません。アップのカットがあればよかったのですが。


最後を飾るカットは、これのみ昭和39年10月の撮影。東中野駅付近を通過する、上り急行「たてしな」号です。これもまた見返りショットですが、8歳のガキですから、列車が来てから気付くわけで、写っているだけめっけモノといえましょう。非冷房原型の165系というだけでも貴重ですが、実はもっと貴重なカットです。それは、中央東線に165系が定期運用で使用されるようになったのは、8月23日の上諏訪電化を受けて、39・10の改正から。それも、上諏訪行きの急行「たてしな」だけ。165系といえばみんながイメージする急行「アルプス」は、翌40・10の松本電化以降の登場です。ということは、これは中央本線で活躍を始めて直後の165系の姿ということになります。10月に入って、東京オリンピック開幕前ですから、昼の撮影ということを考慮すると、10月4日の日曜日の撮影ということになります。



(c)2011 FUJII Yoshihiko


「記憶の中の鉄道風景」にもどる

はじめにもどる
inserted by FC2 system