都電32系統 学習院下 -1973年2月11日-


3.11東日本大震災の後、押入の中の荷物を積みなおしているとき、文字通り「瓢箪からコマ」で現れたネガの束。その後、一年以上に渡って引っ張ってきましたが、ついにこのネタも最後の一発。都電の32系統、今の荒川線を、学習院下を中心に千登世橋から面影橋の間で撮影したカットです。都内ながらわざわざ撮影に出かけているので休日、電車に旗が立っていますので、それも祝日であることがわかります。景色や陽射しからして真冬ですので、前後のカットの情報や、モノクロで撮影していることを考慮に加えると、1972年から73年にかけての冬の撮影であると推定できます。当時、真冬の祝日は、1月15日の成人の日か2月11日の建国記念の日。ところが、気象庁の記録によると、1973年1月15日は雪が降っていました。そんなワケで、1973年2月11日の撮影と判断しました。ちなみに2月11日は、曇り時々晴れでした。気象庁ホームページの、過去の気象記録データベースは、けっこう役に立ちます。



最初のカットは、学習院下停留所に進入する、荒川車庫行きの8000型、8049号。のっけから、逆光を強調した写真ですが、基本的に撮影順を生かしてネガのシーケンスのままお見せしていますので、これが最初になってしまいました。この時は、高2の3学期。路面電車はメインではないコトもあって、やはりマセたガキなりに、凝った絵を撮りたくなったというところでしょうか。しかし、このレールだけギラりという描写は、スキャニングしてデジタルで見せているからできることで、こういう調子で印画紙にプリントするのは至難のワザです。40年を経て、オヤジになった自分に助けてもらって、やっと絵になったというところでしょうか。


続いて、学習院下停留所を出発する、早稲田行きの7000型、7035号。当時は、学習院下の荒川車庫方面停留所の脇に歩道橋があり、絶好の撮影ポイントになっていました。路面電車は、構造上地表レベルに線路があることが多く、沿道のビルの上階にでも登らない限り、なかなか俯瞰撮影は難しいものです。歩行者としては面倒なだけですが、そういう意味では、歩道橋は撮影者には役立ちます。特に、視点が模型のジオラマを見る感じに近くなるだけに、模型ファンからすると、なかなかグッとくる写真になります。電車もさることながら、酒屋のオーシャンウイスキーとペプシの看板、一升瓶の通箱やアイスクリームの冷凍庫など、イマジネーションを広げてくれます。


次は、学習院下停留所に進入する、早稲田行きの7000型、7060号。歩道橋から降りただけで、前のカットとほとんど同じ場所での撮影です。こうやってみると、視点を変えるだけで、ずいぶん雰囲気が変わることがわかります。撮影しているポジションからもわかるように、この踏切は警報機のみの第三種。当時は、国鉄の路線でも第四種踏切がけっこうあり、都内の民鉄とかでも、第三種踏切がかなり存在しました。専用軌道とはいえ、路面電車ですから、第三種というだけでも、けっこう贅沢な装備だったということができるでしょう。オマケに、よく見るとこの警報機は、ちゃんと電鈴式です。電鐘式でもないんですよ。すでに電子音のものも開発されていたと思いますが、このあたりは、いかにも軌道という風情です。


今度は、学習院下-面影橋間に移動しての撮影です。荒川車庫行きの8000型、8073号。神田川にかかる高戸橋のほうに寄った、少し上り坂にかかるあたりです。8000型も、ぼくが小学生の頃は、まだ新型という感じで颯爽としていましたが、さすがに「廃止まで持てばいい」という安普請だけのコトはあって、この頃になるとヤレが目立ちます。逆光のギラりとした反射で、外板もベコベコになっているのがわかります。かえって前に登場した、生産年度の古い7000系のほうが、しっかりとして見えます。実際、あとまで残りましたし。よく見ると、すでに架線は直接吊架ではなく、シンプルカテナリーで敷設されているんですね。


一気に、千登世橋の近くまで行ったカット。学習院下-鬼子母神間を行く、早稲田行きの8000型、8099号。ここは、明治通りからちょっと離れるので、専用軌道らしさが一段と強調され、インタアーバンっぽい雰囲気が漂います。それがあってか、この踏切は、自動遮断機のある第一種踏切ですね。こうやって見ると、この時はほとんど広角の35mmレンズで撮影していることに気付きます。35mmで鉄道写真というのは、機関庫の中を見学しているときとか、模型制作用のディテールを撮影しているときとかを除くと、個人的にはあまりやりませんでした。路面電車の車輛を撮る、というより、街と電車を撮るコトをイメージしていたんだろうと思います。


再び、学習院下停留所の脇にある、歩道橋からの撮影です。荒川車庫行きの7000型、7055号。休日とはいえ、明治通りの交通量が少ないのには驚きます。これでも、すでに平日は激しい交通渋滞が頻発していただけに、のどかな休日という風情です。それにしても、ビルが少ないこと少ないこと。現在ではこのあたりもビルが立ち並んでいますし、遠景の新宿方面も、高層ビルがあふれています。池袋、新宿といった「副都心」こそ、この頃から賑やかで、それなりにビルが立ち並んでいましたが、その間を埋めていたのは、住宅地や町工場の並ぶエリアでした。今では、明治通りは端から端までビルが並んでいますが、昭和40年代はまだこんなものでした。


学習院下を出発する荒川車庫行きを見送ると、折り良く、向こうから早稲田行きがやってきました。おまけに、今度は6000型のようです。旧王子電軌をルーツに持つ、現在の都電荒川線は、当時はまだ全線直通系統はなく、早稲田-荒川車庫間の32系統と、王子駅前- 三ノ輪橋間の27系統(1972年11月に赤羽-三ノ輪橋間を廃止・短縮)に分断されていました。荒川線として一系統化されたのは、1974年の10月。荒川線自体は今でも現役で、鉄道ファンのみならず、レトロな人気を集めていますが、この頃はまだまだ都電らしさを残していたということができます。サンシャインシティーのない空は、今となっては広く新鮮な感じです。


さあ、やっとやってきた6000型は、6212号。続けて歩道橋上からの撮影です。傾いてきた冬の陽射しが、いい形で順光になっています。この歩道橋、グーグルとかで見る限りは今でもあるようですね。先ほどすれ違った7055号も、まだ小さく見えています。ぼくらのように、都電の全盛期もまだギリギリ見られた世代からすると、5000型や1000型のような、リベットのごつごつした戦前派の車輛も、5500型みたいな斬新なメカニズムを取り入れた車輛も乗ったことがありますが、昭和20年代の都電を代表する、この6000型や3000型のようなスタイルが、一番路面電車らしい姿に映ります。


歩道橋を駆け下り、学習院下を発車した6212号を、返り打ちで捉えます。やはり6000型、それも方向幕窓の小さいタイプが、レトロ心を最もくすぐるようです。学習院下は、この時とはプラットホームの位置関係が逆になっているので、微妙に雰囲気が違います。バックの建物は、東京日産の修理工場。ここには、今でも東京日産のビルが建っています。こうやって単行で走る電車を見ると、路上の交通渋滞という以前に、単位時間当たりの輸送力という面で、東京という都市が必要とする量をこなせないことがよくわかります。やはり、記憶の中で走る乗り物ということなのでしょう。



(c)2012 FUJII Yoshihiko


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