総武線緩行の車窓から(先史遺跡発掘シリーズ その1) -1968年6月22日-


東日本大震災の影響で、押入れの奥から転がり出てきたネガの束。チェックしてみると、総和40年代に写した一般の写真の中で、鉄道関連のカットが写っているものを集めたモノでした。鉄分が薄い時期でも、それなりに貴重なものとしてより分けて保管していたのを、すっかり忘れていたのでした。まあ、そのおかげで、他のカットがどこかに散逸してしまっても、21世紀の今まで保存されてきたわけですが。それどころか、そんな写真を撮っていたことすら記憶の外になっているカットも、先月の秩父鉄道の時に触れたように数知れません。その中には、小・中学生だった43・10以前の鉄道風景もありました。もちろん、昭和40年代のガキがハーフ判のオリンパス・ペンやキャノン・デミで撮影した上に、劣悪な保存状態で40年経っているわけなので、写真としてはほとんど論外なカットばかりですが、今の目から見れば、記録という意味ではそれなりに価値があるモノも含まれています。そういう意味で、またもや新シリーズ「先史遺跡発掘シリーズ」として、恥を忍んでお届けします。かたいことは言わず、1960年代の雰囲気を感じていただければ幸いです。まずは、1968年の6月。おなじみの千葉の別荘へは、当時いつも自家用車で往復していましたが、珍しく電車に乗って行ったときの帰り。千葉から乗った上り総武線緩行の先頭車(クハ100と思われる)の「かぶりつき」から、当時12歳のぼくが見た鉄道風景です。



千葉駅を出て西千葉に差し掛かると、当時見えてきたのが、千葉気動車区。気動車王国千葉を支えた、日本最大の気動車区です。当時東京近郊では、電車区は見慣れていましたが、これだけの未電化の留置線に、車輛がいっぱい停まっている姿は、いかにもインパクトがありました。キハ35系が3輌にキハ28が1輌並んでいますが、これは雑多な形式が集められていた当時の千葉としては、バリバリの新鋭という感じでした。バックには、まだモダンな存在だった頃の新築「団地」が見え、時代を感じさせます。こうやってみると、総武本線は複線電化ながら、40kgレールに木製枕木で、犬釘も直打ちという乙線規格だったんですね。個人的には、「へろへろ」過ぎず、立派過ぎずという、このくらいの線路規格が、一番なつかしいですね。


千葉気動車区の脇を通過するとき、一瞬目に入ったのは、千葉にしか配属されていなかったステンレスカー、キハ35の900番台。「首都圏色」ではないですよ。この頃は、まだそんなものはありません。さっそくシャッターを切っても、乗務員室扉の窓からは、後半分しか撮れませんでした。それでも、カメラを構えてかぶりついていたからこそ、なんとか撮れたということもできますが。こいつに乗る機会はたびたびありましたが、写真に撮ったのは、この時だけです。奥には、キハ26でしょうか、キハ55系の姿が写っています。手前側の「かぶりつき窓」のガラスには、キハ17系の「バス窓」が写りこんでいます。しかし、留置線の線路は、これ30kgじゃないですか。まあ、ディーゼルカーしか入ってこないので、それでも問題ないのでしょうが。


駅にさしかかると、待避線には、C58の牽引する貨物列車が停まっています。稲毛駅でしょうか、幕張駅でしょうか。待避線があるくらいですから、駅は限られていますが、なんせ快速線ができる前は、ほとんど乗ったことがない線区だったので、想像しようにもとりつく島がありません。それにしても、郷愁を呼ぶのどかな風景、日本型鉄道模型の原点ですね。当時から、緩行線は閑散時でも数分ヘッドで運転していましたから、蒸気牽引の貨物は、逃げ切りにずいぶん苦労したでしょう。この時は43・10前ですから、車扱貨物列車の速度は、上限がまだ65km/hだったワケですし。おまけに、今回の写真をチェックしていただくとわかるのですが、貨物列車もけっこうな頻度で走っていましたから、かなりの綱渡りダイヤだったと思われます。


電車区への側線が見えますから、電車は津田沼駅に停車中です。帽子のつばがみえていますが、なにやら添乗の乗務員も乗ってきたようです。下り線には、D51の牽引する下り貨物列車がやってきました。速度表示の標識とちょっとカブっているのは、ご愛敬ということで。機関車は、新小岩機関区のD51507号機。今でも蘇我までは貨物列車が走っていますが、この当時も京葉工業地帯をバックにした、京葉臨海鉄道着発の貨物は多く、千鉄管内でもこの区間のみは、新小岩機関区のD51が使用されていました。平坦線とはいえ、みたところトキやタキといったボギー車を含んで、実車で30輌近くありますから、かなりの貨物量です。まだまだ、総武本線の貨物列車が、房総半島のライフラインを支えていた時代だったのです。


ホームに進入する、D51507号機。同機は、新製以来一貫して東京周辺の機関区に配属され、大宮工場持ちだったカマです(最後は厚狭にて廃車)。そのワリには、LP403一灯でクルパーのお皿なし、と、何か九州のカマのような端整な表情をしています。まあ、文字通り「ガキに毛が生えた」程度のが、偶然撮ったワケですが、機関車がアタマのところしか入っていない分、なんか模型のフォトセッションみたいな構図です。よく見ると、年季の入った木造の倉庫や詰所、木製の架線柱をはじめとして、確かにレイアウトやジオラマのファンからすると、大いに心惹かれるアイテムがそろっています。電車と蒸気の組合せで、架線の下を行くSLというのも、関西でも片町線とか、都市近郊ではけっこうありました。意外と模型ではやる人がいませんが。


下り線に、当時の房総の華といえるディーゼル急行がやってきました。夏の房総急行というと、ある車輛は何でも連結してしまう「遜色急行」がおなじみですが、一応先頭はキハ28と格好はついています。そしてヘッドマークをよく見ると、ぼんやりとですが、ひらがな4文字であることが見て取れます。はて、そんな愛称の急行があったっけと思いますが、これが実は貴重なもの。68年夏のシーズンのみ、うち房・そと房ではなく、うちぼう・そとぼうとひらがな表記だったのです。それはさておき、線路を横切る高圧線が見えるのと、はるか彼方に高架線が見えることから、撮影地は西船橋-船橋間と考証しました。今では想像もできないような夏の田園風景が広がっています。複々線化の計画自体はすでにあったので、線路脇の用地は買収済みなのか、家のない領域が帯状に広がっているのも、ローカルっぽい感じです。もっともこの頃、舞浜や幕張新都心はまだ海の中ですが。


市川駅ですれ違った、C58229号機の牽引する下り貨物列車。なんか、子供の頃って、車輛の「顔」が写っていればそれで満足してしまう傾向があるようで、クルマとかでも、フロントのアップをよく撮ったりします。これも、ドアの窓越しに「顔」が見えたんで撮った、という感じでしょうか。でも、意外とC58の特徴は撮れてますね。229号機は、ほぼ新小岩機関区一筋のカマですが、なるほど、LP405の前照灯やクルパーのお皿、十字の煙室扉ハンドルなど、関東のC58の特徴が満載です。この年の10月には廃車になってしまうので、最後の活躍の姿です。しかし、こうやって見ると、千葉から市川の間で、蒸気牽引の貨物列車3本とすれ違っている勘定になります。この区間の蒸気列車の密度がいかに高かったかが、この事実からもわかります。


この時期、この区間で活躍していた蒸気機関車には、貨物用のD51形式、C58形式に加えて、旅客用のC57がいました。ということで、新小岩付近で見かけた、新小岩機関区のC57129号機。戦後は一貫して千葉地区で活躍したカマです。これもLP403一灯で、ワリと好ましいスタイルです。ちなみに、クルパーのお皿は、子供の頃みた蒸気機関車にはみんなついていましたから、「そういうもの」だと刷り込まれてしまったようで、決して嫌いではありません。はっきりいって、集煙装置付きのC57よりは、クルパーつきのC57の方が許せたりするのですが。房総地区のC57形式は、関東地区では最後まで残った旅客機で、上野口に来ていた佐倉のカマとあわせて何度も目にしてはいますが、写真に撮ったのは、このワンカットのみだったりします。文字通り、初めて撮影したC57です。


一瞬のミニ旅行気分も、ここまで。電車は、錦糸町駅に到着しました。ここから先は、見慣れた都心の風景です。こんな手近で、こんなにたくさん蒸気機関車が活躍していたのですから、あと2〜3年早く生まれていたら、また違った人生が送れたでしょう。まあ、それならそれで、旅行にいけるようになると、奥中山の三重連とか、平以北のゆうづるとか、別のネタを撮りに行って、千葉の蒸気の写真はやっぱりガキのときだけ、ということかもしれませんが。このころは、錦糸町もホーム一面。今、快速線のホームがあるあたりには、客車区や機関車駐泊所がありました。でも、このカット。多分、偶然撮れてしまったのだとは思いますが、なんか我ながらマセたガキですね。まあ、68年という時代がそうさせたのかもしれませんが。


(c)2011 FUJII Yoshihiko


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