デジタルマーケティング必勝法


第四章 デジタルこそ人間力




・デジタルの時代は人間の時代
・人間の本質は変わらない
・デジタルだけで通じるモノは二流
・大事なのはコンピュータ・リタラシーではなく、アナログな情報リタラシー
・コンピュータは付加価値を生まない
・Below the line を見極めろ
・デジタルは単なる手段
・ハイテクは目的がなくては使えない
・コスト意識はシステム発想を活かせ
・理屈は一流、感覚二流のデジタル人間に経営はできない



・デジタルの時代は人間の時代


この本の中でも随所で述べてきたことだが、デジタル技術は、付加価値を生まない作業を、早く、ローコストで実現するためのものだ。後生大事にうやうやしくありがたがるものではない。どちらかというとおいしくない、汚い仕事をさせてこそメリットを生む。そのメリットとは、逆に人間をこういう単純作業から解放し、知的生産に関わる時間を増やすことで、その人が産み出す付加価値をより高めることだ。そもそも人類の歴史を振り返って、技術と人間の関わりを考えたなら、このような現象はデジタルに限ったことではなく、あらゆる技術が生まれる度にくりかえされてきた現象であることに気がつくだろう。人間が人間らしく活きるためにこそ、テクノロジーは使われるべきだ。
その典型的な例として、1830年代に生まれた写真技術を取り上げてみよう。写真の発明と、それが画家に与えた影響をみると、興味深い事実が浮かび上がる。写真が発明されたとき、画家たちは大きな衝撃をうけた。これにより、自分達の喰いっぷちがなくなってしまうと考えたヒトも多かった。しかし、本当のインパクトはそれと全く違うところに現れてきた。
カタチをそのまま写すだけなら、絵画より写真のほうが強い。確かに喰いっぷちを奪われる画家たちもいた。それまで、従軍画家とか、新聞の挿絵を描くジャーナリストとしての画家という職業があったが、これはすぐに報道カメラマンがとって変わった。また肖像を中心とする、一般顧客を相手とする画家も、写真家にその席を譲った。それは、彼らが単にカタチを写し取る職人としての画家たちだったからだ。
喰いっぷちという意味では、影響をうけなかった画家たちもいた。逆に彼らは積極的に写真を利用し、まず風景やポートレートなど習作用のデッサンの代わりに写真を撮った。すると、そこから発見が生まれる。カタチ、輪郭、陰影、といった面では写真が圧倒的に描写力がある。では写真でできない表現とは何か。彼らはそれを求めた。そこで、当時の写真では表現できない、色や光に表現者の関心が集まってきた。カタチではなく、色や光で対象物を表現する可能性。その中で沸き起こったのが印象派だ。写真の発明無くして、印象派は生まれなかった。また当時沸き起こった、ジャポニズムの流行や、版画ブームも、写真とは異なる表現の追及という文脈の中で支持を集めたものだ。このように、19世紀後半の美術の興隆は、そのファーストインパクトを写真の発明に求めることができる。その影響がフィードバックし、19世紀末になると、写真そのものも、カタチを写し取る作業から一歩前進し、表現的なものを模索する動きが生まれてきたのは面白い。
現在では、絵画に代表されるアートといえば、自己を表現する表現手段であり、アーティストとは、単なる手先が器用な職人でなく、表現する自分を持ちそれをカタチにできる人というニュアンスが確立している。しかしこれが常識となったのは、そう古い話ではない。こういう芸術観は、写真技術が画家に与えた影響の結果であり、その歴史は高々150年位のものだ。このように自己を表現する場としての近代アートは、写真の発明によって生まれたと言っても過言ではない。そしてデジタル技術もまた、同じようなインパクトを人類に与えるものと言っても間違いではないだろう。



・人間の本質は変わらない


ハイテク時代になったからといって、人間の本質が変わるワケではない。逆に、デジタル化が進む情報化時代では、産業・経済のソフト化が進み、工業化時代より一層人間らしさや人間の本質が重視される時代になる。この変わらない人間の本質を見抜くことがヒットを生み出す。テクノロジや環境に左右されないものこそ、価値あるものだ。アートやエンターテイメントではここが重要。こういうテクノロジや環境に左右されない本質的な価値をどれだけ持っているかが、作品としての良し悪しになる。こう考えると、よくある「テクノロジアート」なんてまやかしだってことがわかる。それらは所詮一発屋、目先の変化で目眩ましをかけているだけ。本当の芸術性があるワケでない。
家庭用の映像パッケージメディアが登場して、20年以上が経った。この間でもVHS、βに始まり、テープベースでもS-VHS、8mm、Hi-8等々、ディスク系ではレーザーディスク、台湾香港で普及したMPEGによるCD-VIDEO、最近のDVDと数多くのパッケージメディアが登場した。今から振り返ってみれば明解なのだが、どんなパッケージメディアであろうと、そこで売れるソフトはやはり名画ということになる。風と共に去りぬ、スターウォーズといった映画は、新しいパッケージメディアがでてくる度に、2次利用、3次利用、4次利用……とくりかえしそれぞれのメディアで発売され、ソフト売上のベストセラーになる。メディアテクノロジーと作品の良し悪しは関係がない。
日本の古典であると同時に、世界でも古典的名作として知られる源氏物語。そこに描かれている世界は、もちろん登場人物たちが属している平安貴族の文化や生活習慣をベースに描かれている。しかしその書かれているテーマそのものは、男と女がいる限り、永遠にくりかえされるであろう人間の本質的な性だ。だからこそ現代でも小説として充分輝きを持っている。この輝きは将来とも変わらないだろう。今までにも源氏物語を映像化した映画やTV番組は、何本も作られた。これからも、たとえばデジタルHDTVなどの最新テクノロジーを使って映像化されるだろう。その映像作品は、最新の圧縮技術を使用し、DVDといったパッケージにも収められるだろう。しかし紫式部は、デジタル映像になって、DVDに収められることを考えて源氏物語を書いたわけではない。当たり前の話だが、だからこそヒトの心を打つのだ。
日本の仏像彫刻というと、運慶、快慶に代表される、写実的でパワーにあふれる鎌倉彫刻が世界的に人気が高い。また、世界遺産として知られる法隆寺をはじめとする飛鳥、天平時代の仏像も、そのより純粋な信仰心をカタチにしたような造形で、これまた世界的に知られている。これらの名高い仏像は、今現代人が見ても心にアピールし、清い気分にさせてくれる。これはなにより、人間の本質や人間の心が、その当時と変わっていないことを示している。こういうデジタル技術と無縁の世界にも通じる心があってこそ、コンテンツの価値は生まれる。そして、商品がソフト化している現代では、ヒット商品を生み出すにも、こういう人間の本質を見つめ、それをとらえた要素がなくてはならないことはいうまでもない。



・デジタルだけで通じるモノは二流


デザイナーでも、アーチストでも、デジタルの世界だけで有名な人はみんな二流と言っていいだろう。どういうジャンルでもテクノロジを利用するものは、出始めの時期に限ると決まってこういうヒトが多い。しかし、彼らがもてはやされるのは表面的な目新しさが目立つ間だけ。技術がこなれてくると大御所がとって替わるのが常だ。
たとえばデジタルテクノロジが、ソフト制作のありかたを大きく変えた事例としては、シンセサイザーの発展による、CM/ビデオBGM業界の変化をあげることができる。1980年代の初頭までは、CM/ビデオ等でオリジナルの音楽を使おうとすると、ミュージシャンを集めた上でスタジオを借りて録音するなど、原盤制作と同様のコストがかかり、一曲数十万円を下らなかった。この時代においては、音源タイアップは音楽コストを削減する手段であった。しかし、シンセサイザの発展によるDTM(Desk Top Music)技術の進歩により、作曲者やアレンジャーが、直接マスターを作成し納入することが可能になった。これにより音楽制作コストは一桁低下した。この影響は、音楽制作業界では大きく、本当に実力のあるものにとってはチャンスが大きくなる一方、暴利をむさぼっていたレベルの低い音楽制作会社は淘汰されることになった。CMやプロモーションビデオの制作者にとっては、オリジナルの音楽利用が容易になることで表現の幅が広がったり、制作費のコスト弾力性が増したりといった、プラスの影響をもたらした。
当然のように、当初においては、音楽性が低い人間でも、「シンセサイザーを持っている」とか「シンセサイザーを操作する技術を持っている」というだけで仕事がもらえた時期もあった。しかしこの面でも、本当に実力のあるミュージシャンの中からシンセサイザーの操作法をマスターしたり、シンセサイザーを購入したりする人間が現れてくるとともに段々化けの皮が剥がれてくる。そして技術の進歩により、それまでのアナログ楽器と同様のテクニックで使いこなせるシンセサイザーが登場してくると、音楽性の低い人間では全く通用しないようになってしまう。
これはCG界でも同様だ。デザインセンスどころか、絵心のカケラもない技術者・研究者が、数式を組み合わせて作ったフラクタル図形など、見た目の面白さはあっても、アートの作品とはなり得ない。もちろん、自然の流木を組み合わせて作ったオブジェが、立派に作品として存在するように、そのフラクタル図形をモチーフや意匠として利用し、作品を作り上げることはできる。だが、図形そのものが作品となることはない。それはそこに作者の表現メッセージが入っていないからだ。実験的習作と呼ぶのが最大限の譲歩だろう。
アメリカのCGコンベンションである、SIGGRAPHのフィルムショーの出展作品を見てゆくと、このようなCG界の変化がよくわかる。初期においては、「いかにも合成画像でござい」というトーンを持った、大学や企業の研究機関からの出品が多かった。しかしその後の技術レベルの上昇とともに、映画やCMで実際に使われた、プロの映像業界からのCGの出品が増えてくる。最近ではどこから見ても実写と見まがうばかりの、SFX画像が中心だ。ここまで来ると、もはや映像のプロでも一流の人だけに許される世界だ。



・大事なのはコンピュータ・リタラシーでなく、アナログな情報リタラシー


コンピュータを語る場合、「まず大事なのはコンピュータを使える技術を持つこと」すなわち、コンピュータリタラシーが重要とよくいわれる。しかし、それは全くのウソ。コンピュータのソフトやハードの知識がなければ使えなかった、昔の大型コンピュータや初期の8ビットパソコンならいざ知らず、アプリケーションソフトを買ってきて使う時代になってからのパソコンなら、そんなことはない。ましてや今は、WindowsやMacOSといった、GUIと呼ばれる画面上のアイコンをマウスで扱えば、ほとんどの機能について用が足りる時代だ。動かすことは幼児でも老人でも誰でもできる。
しかしこういう時代になっても、コンピュータを使えない人がいるのも確かだ。だが、使えないのには理由がある。彼らはコンピュータの操作法を知らないから扱えないのではなく、扱う必要性がないから、使えないだけだ。ほとんど文章を書かない人も世の中には多い。彼らは、紙と鉛筆でさえいらない。ましてやワードプロセッサなど必要となるわけがない。こういう人達は、いかにワープロの操作を覚えようとしても、使えるわけがないのだ。この、コンピュータを使って何をしたいか、という目的意識がどれだけ明確化ということを、コンピュータリタラシーならぬ、情報リタラシーと名づけよう。その意味では、コンピュータを使うには、情報リタラシーのほうが大事だ。
一人一台のパソコンを導入し、イントラネットを構築する企業が増えている。ビジネス誌などでも、多くの特集記事が組まれ、先進企業の事例が紹介されている。電子メールを導入したことで、社内のコミュニケーションの風通しが良くなったとか、トップと社員との文鎮型コミュニケーションが形作られたとか、その例はいくらでも上げられるだろう。しかし間違えてはいけないのは、これらの成果は決して電子メールやネットワークシステムを導入したことによってはじめて生み出されたものではない点だ。
もともと、ほとんどのコミュニケーションがラインにそって行われる軍隊型組織をもち、社内でのインフォーマルなコミュニケーションが盛んでない企業ならば、いかにネットワークを組もうと、電子メールを導入しようと、それだけでコミュニケーションが活性化することはない。導入したところで、使われずに埃をかぶるのがオチだろう。実際、電子メールを導入した企業で、利用率を示すトラフィックを測定してみると、企業の人員や売上と行った規模がほとんど同じでも、企業によって利用量が一桁、場合によっては二桁違うこともざらに見られる。
同じく、トップと社員との文鎮型コミュニケーションについても、もともと企業風土が文鎮型で、トップもよく現場に来るし、現場もトップとよくコミュニケーションをとっている企業であったから、ネットワークを導入してそれがますます活性化しただけだ。もともと風通しの悪い企業なら、社員から社長へは、読んでも意味のないようなメールがいっぱいくるのが関の山だ。こんなものを読まされたのでは社長もたまらない。きっとメールなど来ても読まなくなるのがオチだろう。デジタル化を考えるときには、常にそれを使う人間の組織が持っているモチベーションや風土を考える必要がある。



・コンピュータは付加価値を生まない


コンピュータはインプットした情報の整理・加工・組合せの範囲でしかアウトプットができない。知恵をもって付加価値を生み出すのは、機械には無理、人間だけができる仕事だ。
だが、あることを表現し、他人に自分のイメージを伝えるためには、何らかの技術を使う必要がある。音楽とか絵画とかも含め、「メディアを使う」ということもできるだろう。このため表現の周辺には、テクノロジと表現の境界領域が必ず存在している。この分野で新しい技術がでてくると、それを使った新しい表現が可能になる。これらの領域で最初にでてくる表現が、「実験的習作」なのはしかたない。だがこういうときに限って「技術者としても、アーチストとしても、どちらも二流」な人間が、見た目の目新しさだけにたよって、「作品でござい」とかいいながら、アーチストづらをすることが多い。
これは、コンピュータからでてきたものが付加価値を生んでいると勘違いしていることから起こる。コンピュータは付加価値を生まない。価値という面で考えると、コンピュータからでてくるモノは、インプットと同じか、それ以下のモノでしかない。それで、だまされる観客も観客だが、これは、ニューメディアだ、ニューロだ、マルチメディアだ、インターネットだと、名前だけで実態わからずにわいわい騒ぐビジネスマンと同じだ。仕方ないといえば仕方ないだろう。そのうち、技術がこなれると、アーチストとして一流の人が、ちゃんとなにかが表現された「作品」をつくる。そうなれば、彼らは淘汰される。
これからの時代は、コンテクストがつくれる人という意味に加えて、本当にオリジナリティーある表現を産み出せる人しか、アーティストとは呼べなくなる。結局のところ、紙と鉛筆があれば、いやそれさえもなくても、新しい価値を作れる人だけが、クリエーターと呼ばれることになる。こういう時代になると、クリエーターか、コンピュータでもできることしかできない人かという、新たな階級差別が起こる可能性まで視野に入れなくてはならない。だからこそ、実態は「コンピュータ以下」なのに偉そうに威張ってる俗人が、あせったり守旧派になったりしているワケだということもできるだろう。
ビジネスに置き換えて考えると、商品の付加価値につながるヒントやネタは、新しいテクノロジーの中にはない、ということになる。新しい商品やサービスを、よりローコストで提供したり、より手軽に多くのクライアントに提供したり、という場面では、新しいテクノロジーが役にたつ場面もたくさんあるだろう。だが、お客さんがお金を出してくれるような「付加価値」は、新しいインフォメーション・テクノロジーの中からは生まれない。
シャノンのはじめた情報理論では、情報のエントロピーを減少させる、「情報のネグ・エントロピー」という考えかたがある。付加価値とはこれをマーケティング的に表現したモノだ。この「情報のネグ・エントロピー」を生み出す力は人間にしかない。そしてこの文脈で考える限り、どんなテクノロジーも、人間がより人間らしく、付加価値を生み出せる仕事に専念できる環境を生み出すツールでしかない。付加価値を生み出していない凡人の仕事は、インフォメーション・テクノロジーできっと置き換えられることでしょう。そして置き換えられないところにこそ、人間がやるべき仕事があるのはいうまでもない。



・Below the line を見極めろ


デジタル技術をもっとも大きなビジネスチャンスに結びつけるには、コスト分岐点を見極めることがカギになる。デジタル技術はあるコストレベルより下でこそ活きる。デザイン印刷関係は、この数年でデジタル化の波が急速に進んだ領域だ。特に、Macを利用してディスプレイ上でレイアウト作業を行い、そのデータからそのまま色分解したフィルムや完全版下がアウトプット可能になったことにより、フィニッシュワーク/製版/印刷の各作業のありかたが大きく変わるとともに、一貫した作業が可能になった。これにより、コストや時間といった面でのメリットだけでなく、印刷/デザイン業界の業務形態をも変えつつある。また、新しいデザイン材料や技法が開発されたという意味では、今までにない新しいイメージをもたらし、表現可能性を拡げることはいうまでもない。
このように、デジタル化によりデザイナは、いままでの線引き職人的なスキルだけでは喰っていけない時代となりつつある。しかし、アートディレクション的な企画立案を中心とするデザイナにとっては、このデジタル化の動きは新たな可能性をもたらしこそすれ、なんらデメリットとなるものではない。
最終的に印刷物に落とし込むデザイン作業には、基本となるコンセプトを各制作物において最適に表現するプロセスである、ブレインワークの比重が高い知的生産のとしてのアートディレクションと、つきつめれば版下を制作していく労働集約的な過程としてのデザインワークとがある。一連のデザイン作業の中では、アートディレクションに代表される知的生産こそが付加価値の源泉である。業界用語では「制作作業」といわれる。一方デザインワークは作品づくりになくてはならないモノではあるが、そこでの付加価値生産は小さく、単にデザイナーの頭の中にあるイメージを現実化するプロセスである。これは「製作作業」と呼ばれる。
このようにデザイン作業の本質はデジタル化しても変わらない。すぐれたアートディレクタなら、手作業でも、デジタル作業でもディレクションは可能だ。デザイン/印刷作業のデジタル化で変化を引き起こすのは「製作作業」だ。「制作作業」には変化はあまりない。制作と製作は表裏一体で不可分の関係にある以上、デジタル化の影響から逃れることができないのも確かである。しかしそれは、デジタル化によりもたらされるメリット・デメリットや、デジタル化でできること、できないことといった、アートディレクタとして製作に対しディレクションするために必要になる基本的なノウハウを学ぶことで対応可能だ。これはいろいろなデザイナやプロダクションを、その強みやメリットにあわせて使いこなすのと変わらない、アートディレクタの基本的ノウハウの一つでもあるからだ。
このように、デジタル技術が変化をもたらす、言い換えればデジタル技術を導入することでメリットが期待される領域は、付加価値と関係が薄く、コスト競争力が重視される部分だ。この基本構造を取り違えてしまうと、本来持っているはずの競争力を失うとともに、得られるべきコスト削減による競争力も期待できなくなる。まさにデジタル化が活きるコスト競争の一線をわきまえているかどうかが、メリットを活かすカギだ。



・デジタルは単なる手段


デジタルに代表されるハイテク技術は、あくまでも手段で、それ自身が目的となることはない。デジタルビジネスの関門は、ここで本末転倒に陥らずに済むかどうかだ。デジタルを外した部分で、その作業の本質を知っている人は、デジタル化してもその使いこなしを間違うことはない。しかしそれを知らない人ほど、とんでもない勘違いをすることが多い。
たとえば、ワープロを使うのがうまい人とはどういう人なのだろう。そのイメージは、ワープロの普及とともに、誰でも使えるようになってずいぶん変化した。ワードプロセッサ登場の初期においては、「キレイな字が出てくる」というだけで人々は驚き、それが付加価値を生んでいるかのごとく思った。ワープロの操作にさえ習熟すれば、それだけで誰にでもいい文章がかけるものと勘違いした。
しかし実際は逆だ。文章を多く書く人、文章にこだわる人といった、文章を書くことの本質を知っている人達は、ワープロを本当に使いこなせば、熟考した推敲が容易にできることに気付いた。すわなち、ワープロを使う意味は、キレイな文字ではなく、よりよい文章が作れる可能性にあるのだ。本当にいい文章を書く能力のあるヒトは、ワープロを使えば、よりよい文章をかける。しかし、文才のない人間はワープロを使っても、よい文章がかけるわけではない。かえって文字が読みやすいだけに、その文章のいたらなさが誰にでも見えてしまうのがオチである。このようにデジタル技術とは、あくまでも人間にとっての道具であり、魔法ではない。単なる手段に過ぎないのだ。能力のある人間が使ってこそ、機能が活きる。能力の至らなさを補ってくれるものでは断じてない。
このような傾向は、マルチメディアパソコンの普及とともに話題となっている「マルチメディア技術を活用したプレゼンテーション」においても、まったく同じである。もともと独創的ですぐれた企画であれば、それを最新技術を活用したプレゼンテーションで紹介することによって、ますます説得力あふれるものとすることが可能である。しかし、もともと無内容でレベルの低い企画は、ハイテクプレゼンテーションによりその無内容さがかえって相手に明確に伝わってしまうのがオチだ。見掛け倒しでは化けの皮がハゲる。大事なのは中身だ。デジタルであればあるほど実はこれがあらわになる。
全く無内容の、三流の詩があったとしよう。これを達筆な書家にしたためてもらい(嫌がられるのがオチだろうが)、立派な掛け軸に表装すれば、普通の人にはスゴい作品に見えてしまうだろう。途中がアナログな分、そのメディアの技により本質がマスキングされてしまうからだ。しかし、これがワープロ文字だったらどうだろう。まっとうな感性がある人からは、嘲笑の対象となるのがオチだ。
これもまた、デジタルの世界の掟の一つ。デジタル技術は、基本的に民主的、平等的な性質があり、いままで実力もないのに偉そうに威張っていた人達を「裸の王様」にしてしまう特徴があるのだ。デジタルでごまかすどころか、デジタルでは化けの皮がはげる。デジタル化への対応を考える上でもっとも重要になるのは、実はこのような視点ではないだろうか。



・コスト意識はシステム発想を活かせ


デジタルビジネスを行う場合、コストや効率は、製品やサービスをシステムとしてみた場合の、系全体という視点で考えるのがポイント。技術の一点豪華主義は意味がない。それでは経営資源の無駄遣いになる。科学の実験や、統計調査などの場合、あるデータだけこだわってむやみに精度を高めても、他のデータの精度がそこまでなければ全く無駄なコストと労力になってしまう。このため、小数点以下何桁までとって揃えるかという、「有効数字」の考えかたが生まれた。デジタルビジネスのコスト意識も、ちょうどこの有効数字を合わせる発想が大事だ。
各分野の専門家ばかり集まると、タコ壷に入ってしまい、システム全体のバランスがとれなくなる。往々にして技術者というのは、自分の専門領域には徹底してこだわり、実力的に高ければ高いほど、その他の分野に関してはからきしダメになりがちだ。この特性は、文科系のビジネスマンには理解しにくい。ここに悲劇が起きる。ある特定機能の部品を作る話なら技術者に任せていいのだろう。しかし、現代の製品、それも最終消費者が使うような製品というのは、いろいろな技術を総合的に組み合わせ作る、高度なシステム的製品となっていることが多い。こういう製品に関しては、個々の技術者も必要ではあるが、それだけで開発ができるというワケではない。
この技術者の法則はデジタル機器に限らない。たとえば自動車を作る場合、エンジンの専門家、サスペンションの専門家、ブレーキの専門家と、各分野の最高の技術者を集めても、それでいいクルマに仕上がるほどカンタンな話ではない。それぞれの技術者は必要にして十分というか、ほどほどの実力でも、チーム全体をまとめるプロデューサー的な人材、製品のコンセプトを明確に持ち、それを具体的なカタチにできるプロジェクト・デザイナー的人材がいるほうがずっといい製品になる。もちろん、いちばん理想的なのは、それぞれのメンバーが個々に専門分野を持つと同時に、他の領域にも造形があり、全体のイメージが共有されているチームなのはいうまでもない。この傾向はデジタル機器の開発の場合、より顕著に現れる。
特に人間が使うデジタル機器の場合、最終的にマンマシンインタフェースのところでは、インプットもアウトプットもアナログにならざるをえない。最終的に「アナログでなんぼ」のものだ。デジタル部分にだけこだわっても、アナログにしたとき差がでてこなければコストをかける意味がない。これも、アナログ部分とデジタル部分で技術者が分かれていると、しばしば見落とされてしまうところだ。
また、さらに困ったことには、アナログ部分の質の良し悪しは、使う人間にとって実に感じやすい。オーディオ製品を例にとると、変な音質だったり、ノイズが入ったりというのは、アナログ回路をケチると顕著に現れる。いかにデジタル部分が良くても、これでは売れない。しかし、コンピュータ関連機器ではこういうのが多い。このような、「ユーザーからみて歪んだ商品」を作らないためにも、全体をバランスよく見渡すプロデューサー的人間の役割は、一層高まっているということができる。



・ハイテクは目的がなくては使えない


ハイテク機器は、操作に熟達するのが難しいとかよくいわれる。「パソコンの操作ができなくては、時流についていけない」というような脅し文句は、新聞や雑誌でよく見かける。しかしそんなことはない。使いかたが難しいというのなら、シンプルなアナログの「道具」のほうがよほど難しいだろう。鉋とか、鑿とか、昔からおなじみの大工道具など、一流の使い手になるのには、5年から10年使いこなす経験が必要ということも少なくない。その反面デジタル機器はまさにデジダルで、そのボタンを押せば、間違いなくその機能を発揮してくれる。このほうがずっと簡単にマスターできる。
これは楽器とコンピュータミュージックの関係でも明らかになる。一般の楽器を使って、自分のやりたい音楽をやるためには、昔ならまず楽器をマスターし、自分の出したい音で楽器をプレイできることが前提になった。これは大変な努力がいる。どんな簡単な楽器でも、自在にプレイできるようになるまでには、数年はかかる。小さいときから楽器に親しむ必要もある。だがコンピュータミュージックなら、自分がやりたい音楽さえはっきりしていれば、それを音として鳴らす操作は至って簡単だ。
実はここに本質がある。ワープロの操作が覚えられないのは、ワープロを使う目的がないからだ。文章を書かない人にはワープロはいらない。そんな人が、操作法を覚えられるワケがない。字を書かない人に鉛筆がいらないし、鉛筆の持ち方が覚わらないのと同じだ。世の中、本を読まない人は多い。手紙も出さないヒトも多い。文字を書かない人だって多い。一般の人は情報を消費こそするものの、自分で情報を発信しない。
電話の通話料を見てほしい。基本料金を除いた、純粋な通話料が300円いくヒトはそんなにいないはずだ。学生とか、子供がいる家庭でなければ、大体そんなものだろう。これは一日一通話以下しか使ってないことを意味する。生活時間調査を調べるまでもなく電話の利用量はこんなものだ。平均値でこうなのだから、実際の利用量はもっと極端だ。売れ筋のABC分析ではないが、一部の超ヘビーユーザーと、数多くのほとんど電話をかけないユーザーとに二分されてしまう。ヘビーユーザーに対してなら、留守番電話や、ホームテレホン、コードレス、ホームFAX、はたまたISDN回線なんてのもそこそこ売りようがある。しかし、全く使わないヒトがどうしてこういう「機能」を求めるだろうか。
そういうユーザーをターゲットとした場合、機能的には単なる電話で、デザインや色をインテリアや好みに合わせて選ばせるというのなら、まだなんとかなるかもしれない。しかし、機能は彼らに必要ないのだ。そして、技術とは機能を実現する手段でしかない。まっとうに考えたら自明の利。ターゲットのニーズを見失ってはいけない。
ハイテクに限らずそうなのだが、道具というのは目的がなくては使えない。オジさんはなぜ使いかたを覚えられないかという秘密はそこにある。使う目的がないからだ。学校で習ったことは、社会にでるとほとんど忘れてしまうのもこのためだ。もっとも、学校で習うことは、期末試験が終わってしまえば、その時点ですっかり忘れてしまう人の方が多いかもしれないけれどね。



・理屈は一流、感覚二流のデジタル人間には経営はできない


デジタルビジネスのチーム作りというと、まずは技術がわかる人、理系の人、という発想をするヒトが多い。だがこれは短絡的発想だ。チーム作りとしては大間違い。何よりもビジネス、マーケティングといった商売がわかる人を集めるほうが先決だ。製品開発の現場にはもちろん技術がわかる人間が必要だ。しかし、彼らを事業計画レベルに加えるのは愚行というものだ。同様に新技術に詳しいというだけで、学生や学者をチームに加えるのも危険だ。彼らは仕事の何たるかがわかっていないからだ。いい仕事をすればいいとだけ思っている。だが、納期やアフターフォローを考えないようではビジネスはできない。
ソフトバンクグループが、どうしてあれだけ成功をおさめたかという秘密もここにある。よく勘違いしている人がいるのだが、ソフトバンクの孫会長は決して「コンピュータが好き」な、マニア型人間ではない。「コンピュータは金を生むから好き」、つまり彼が好きなのはお金、すなわちビジネスそのものだ。彼が大成功した理由はここだ。彼は日本では珍しい、業務より経営のほうに興味がある根っからのマネジメントなのだ。彼はソフトづくりに興味がなければ、パソコン雑誌編集にも興味がない。それらは一切現場にまかせ、経営管理に徹することができたからあの成功を生んだのだ。
かつてのパソコン市場の勃興期には、パソコン業界ではプログラマでなければ人間でないとさえいわれるような、妙な掟があった。その時代においては、プログラマではない孫さんは、業界ではかなりウサン臭がられていた。結局、マニアあがりのマネジメントをトップにいただくベンチャーが多かったのだが、彼らは右肩あがりのときには経営ができても、本当の経営たる、難しい判断を伴うかじ取りはできなかった。銀行からもてはやされたバブル期が過ぎると、軒並み経営不振に陥り、銀行からの支援をあおぐ身になった。
あまり業務そのものに深くコミットしすぎては、大成功は難しい。ベンチャービジネスは規模が小さく、トップが業務にコミットしやすい。また、その業務もトップ自身が強みや専門性を持っていたりする場合が多いだけに、気がつくと深入りしすぎることも多い。これは音楽や映像などのソフトビジネスの場合にも陥りやすいおとし穴だ。自分が音楽を作りたいなら、レコード会社の社長になることはない。プロデューサーをやっていればいい。経営にも興味があるならせいぜい自分のプロデュースできる範囲でプロダクションを持つぐらいが妥当な線だろう。
ヴァージン・グループのリチャード・ブランソン会長は、かつてその傘下にヴァージン・レコードを持っていた。彼は音楽を作りたかったのではなく、ビジネスとしてのレコード会社に可能性を感じたから、ヴァージン・レコードを設立した。だからこそ、ヴァージン・レコードは大成功した。しかし、彼の経営的関心が、より大きなビジネス的可能性を生む航空/トラベル関係に移行するとともに、ヴァージン・レコードはEMIグループに売却、その利益をヴァージン・アトランティック航空の資金に投入した。ビジネスはこのぐらいドライでなくては成功しない。

(c)1998 FUJII Yoshihiko


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