多チャンネル化の時代とジャーナリズム





言論の自由は、どんな意見でも対等に発言の機会があること、立場の相対性が認められることが前提になる。多様性を許すからこそ自由だし、価値がある。そもそも違いがある中で、どう共存を図るかという視点が基本にあるからだ。各々の意見をどう取るかは、受け手の責任。言うのが自由なのと同じように、聞くのも自由だからだ、あらゆる意見が流通することこそ大事。言論の自由とはまさに、正義が市場原理に基づいて決まるルールだといえるだろう。

ジャーナリズムも、この言論の自由が原点なはずだ。しかし、世の中のジャーナリストの多くは、自分だけが正しく、違う意見は間違いであり認め難いという姿勢を取りがちだ。これを傲慢といわずして何といえるだろう。たとえば先日インドが核実験をした。核に対しては、世界中にいろいろな意見がある。核実験に賛成・反対、インドの政策に賛成・反対というスタンスはさておき、インドにも発言の機会は与え、その主張にはきちんと耳を傾ける。その上で、それぞれの意見を述べるなり、議論するなりする。これこそ正しいジャーナリズムの視点といえるだろう。

しかし、そういう言論の自由を尊重する姿勢を示した「ジャーナリズム」がどれだけあっただろうか。「核は悪い」、だからインドが悪い。こういう視点で客観性を持たせるフリをしながら、自分の政治的立場を元にインドを糾弾する。こういう姿勢をとったメディアがほとんどではなかっただろうか。神の下に正義があったり、社会の多数が正義だったりという具合に、アプリオリに「正義」が存在し、その価値観の下にしか視点を見出せないのでは、ジャーナリズムとはいえないはずだ。絶対的に正しいものはどこにもない。だからこそ議論が必要だし、だからこそ多様なオピニオンが必要だ。これがジャーナリズムの原点ではなかったのか。

同様に、軍部や一部の特権階級が権力を握っている国もある。こういう国に関しては、ジャーナリスト達は一様に権力だけを批判し、その主張さえ伝えようとしない。判官びいきというか、「民衆」に肩入れし、民衆こそ正義であり、権力は間違っているという主張は、確かに格好良いかもしれない。だが、あえていう。これではジャーナリズムではない。その「民衆」の実態こそ、なんかよくわからないものではないか。政党の機関紙はジャーナリズムとは呼べないことを考えてほしい。自分の立場を持つことはかまわないが、それはさておき、違う立場に立つ人達にも発言権を認めてこそ、言論の自由だし、ジャーナリズムと呼ばれるはずだ。

民衆の側に立つことを標榜するジャーナリストは、権力側につくジャーナリストを「御用メディア」といって批判する。しかし、それでは自分達も「民衆の御用メディア」に他ならないではないか。メディアを支配しているだけで特権意識を持っているという意味では、同じ穴のムジナだ。百人いれば、顔が百様なように、オピニオンも百様だ。どれが正しくて、どれが間違っているというものではない。多チャンネル化で、メディアに乗ることが特権でも権力でもなくなった今だからこそ叫ぼう。オピニオンリーダーとか偉そうなことをいうな。意見の違いは個性の違い、単なる好き嫌いに過ぎない、と。

正義ぶるジャーナリスト達よ。オマエらはもう裸の王様だ。どんなにイバったところで、あんたの主張も、市井の無名の一人一人の主張も、同じ価値、同じパワーしか持っていない。そこからスタートして、共感を得てこそ本当のジャーナリズムだ。コンテンツとはそういう宿命を持っている。ジャーナリストの提供する情報も、コンテンツとしての支持を受けてはじめて、社会性を持つ時代なのだ。それなら、自ら自分自身のあり方を楽しんでさえいる「東京スポーツ」のスタンスの方が、ずっといさぎいいし、ずっとマスメディアらしいといえるだろう。声がデカいから「ジャーナリズム」であり、正義なのではない。その主張が多くのヒトにとって、心から共感できるものであってはじめて、共有される意見となることを忘れてはならない。

(98/05/29)



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