コンテンツと受け手の責任





アメリカ流(というか、それがデファクトでグローバル・スタンダードなりつつあるが)の法意識では、一般に「責任は受け手が負う」のが原則だ。もちろんその前提として、送り手の責任として、受け手が判断するのに必要な情報は全て開示し、受け手が接触する前に自分の意思で行動を取れる環境を提供することがあるのは言うまでもない。だがその上でならば、送り手の責任が問われるのは、受け手に対して、充分な判断材料を提供せず、結果受け手が誤った判断をした場合に限られる。

日本ではこういう考え方を取る法律は少ないのだが、PL法などは、元が元だけに考え方がアメリカ流といえるだろう。PL法には消費者保護というよりも、送り手・受け手の責任の明確化という視点が第一にある。すなわち、事前に警告すべきことは、送り手がきちんとワーニングしておかないと、あとあと責任が発生しますよ、という論理だ。同様に、ソフトやコンテンツの規制問題も、映画のレイティングのように、「エロがある」「暴力がある」とさえ告知して、見たくない人が間違って見る危険性さえ防げば、問題がないというのがアメリカ流の立場だ。

96年のアメリカ電気通信法の改正以来話題になっているテレビのVチップも、日本流の「規制」ではない。コンテンツの制作者から支持を集めていることからもわかるように、Vチップにより「成人向き」と規定されたコンテンツなら、規制なくどんな表現をしても自由になる、というのが発想のベースにある。これは実は日本でも同じで、映画などのレイティングのあるソフトでは、対象を明確にすることで送り手側も自主規制のない自由な表現ができる。一方受け手にとっても、レイティングがかかっていることで、「ゴッツい内容」が期待できるという、ある種の内容保証にさえなっている。一般向けビデオより成人向けビデオのほうが、どうみたって「ハードな展開」という期待がユーザーにあるのはいうまでもないだろう。

ワーニングのある強烈なポルノは問題ない。ワーニングがある「にも関わらず」見たんだから、それで気分を害しても、それは本人の責任で送り手の問題ではない。しかし、街角に露出度の多いポスターが貼られていたとすると、見たくない人も目に触れる可能性がある。エロ度はそれほどでなくても、気分を害する人達に配慮しなかったのは、送り手側の責任だ。ということになる。アメリカ人が、必要以上に公共の場での喫煙に敏感なのも、もしそこに煙が嫌いな人がいた場合に、接触を防ぎようがなく、送り手の責任を免れることができないからだ。喫煙そのものが悪いのではなく、公共の場での、嫌煙者への接触可能性を問題にしている。当然、セクハラ問題も構図としては同じロジックに基づいている。

これがなぜか日本人は不得意だ。苦しいときの神頼みならぬ「上頼み」ではないが、面倒なことはみんな「お上」が守ってくれたり、保護してくれたりするとばかりに、全面的に甘えている人が多い。詐欺商法に引っかかった人が、国に保証を求めるなんて甘っちょろい考えかたをする国は、日本ぐらいのものだ。マルチ商法でも、ネズミ講でも、まっとうな目でそのパンフレットなりお題目を見れば、どっか矛盾していておかしいことはすぐ判るハズだ。それが見えないのは、本人が欲で目が眩んで、冷静な判断ができていないというだけのこと。こんなもの、アメリカじゃ詐欺にすらならない「アホ商法」といわれるのがオチだ。当然、それで損しても誰も保証してくれるワケがない。

長い目で見てゆけば、商取引や生活習慣、「お上」と個人の関係なんていうところまで含めて、日本でもアメリカンルールが常識となるのは間違いないだろう。特に、放送などのマスメディア、映画やビデオなどのソフトビジネス、さらには出版やWebなども含むコンテンツの領域については、急速に国境のない時代になだれ込んでいることもあり、まず最初にアメリカ流が定着すると考えることができる。現状では、旧来の日本的考えかた、グローバルスタンダードに基づく考えかた等々、いろいろなスタンスが百花繚乱だ。しかしここは一つ、グローバルスタンダードを先取りするやり方が、もっともよいのではないのかと思う。中期的にみれば、日本でもそれが常識になるのは間違いないのだから。

(98/07/24)



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