負け犬根性とプライバシー





捜査において「盗聴」を認めるかどうかという、通信傍受法案の審議が進んでいる。それとともに、またぞろプライバシーがどうのこうのという議論が起こっている。しかし、ぼくにいわせればそんな議論は笑止千万。そもそもプライバシーなんてものはない方が正しいのだ。秘密を作るほうがおかしい。裏も表があるほうがおかしい。なんか悪いことをしているからこそ、人は隠そうとする。公明正大。常に自分が正しいと思うことを信じ、そこに向かって真っ直ぐに生きていれば、隠し事などあるワケがない。それが人の道というものだ。

前にも書いたように、世はフェアでクリーンな競争原理の時代。すべてをディスクロージャーしてこそ、正義を味方につけられる。一つでもウソや隠し事があるようでは、誰からも信頼は得られない。これは建て前とか本音とかいう問題ではない。自分のよって立つところが建て前だろうと、本音だろうと、それはどちらでもいい。要は、その立場を曖昧にせず、自分の主義主張をいつも明確にし、それに対して命を掛けるぐらいの真剣さを持ってすべてに立ち向かうことが必要なのだ。だから、いわゆる知識人や良識派のように、さも口当たりのいいことはいうが、そのスタンスは時と場合によってころころ変わるようでは信用されないのはいうまでもない。

では、なんでプライバシーがどうのこうのなどという低次元な議論が起こるのだろうか。こういう主張をするヒトに共通しているのは、自分をさらけ出す勇気、自分の本心を主張する勇気がないという点だ。それならそれで、自分の分際をわきまえておとなしくしていればいい。しかしその割に、コソコソと陰で自分勝手なことをしている。本当に肝っ玉の小さいヤツだ。アイツらは、単に臆病者なのか。それとも、自分の能力のなさを知っているがゆえに、実力を問われないで済むようにコソコソとやっているのか。まあ、理由はどうでもいい。どちらにしろ負け犬だということは間違いないのだから。

そういえばプライバシーの問題を声高に叫ぶのは、市民運動家とか、護憲派とか、日本共産党の支持者とか、典型的な負け犬ばかりではないか。そうでなければ、最初からウソをついてごまかしているくせに、バレても腹をくくって開き直ろうとせず、なんとかごまかし通そうという、小心者のウソつきだろう。そんなウソなら、最初からつくなといいたい。自分が責任取れないようなことを、ごまかしてやろうというのは人間のクズだ。やりたいなら命を掛けて、確信犯でやれ。そこまですれば、きっとウソだってホントになるかもしれないし、信じてもらえるかもしれないが。

世の中にはその対極にいるヒトもいる。いつもぎりぎりのところまで、自分のすべてをさらけ出し、それを人々に伝えてはじめて評価されるという人達。それは芸術家・表現者たるアーティストたちだ。アーティストは、常に隠すことなく自分をさらけ出さなくてはならない。自分の心を偽り、手先だけで取り繕い「作った」作品では、人を感動させられない。自分の心の傷や、自分の恥ずかしいところ、余すところなく正直に語ってこそ、共感を産む。これはアーティスト自身、特に成功したアーティスト自身がもっともよく知っていることだ。

そもそも、作品は、作り手の心から受け手の心へのダイレクトなメッセージだ。そこにはプライバシーや秘密はない。こころを語れば語るほど、その作品の価値は高まり、人類史上に残る作品となる。これは技巧の問題ではない。自分にどれだけ正直かという問題だ。これができてはじめてアーティストなのだ。職業芸術家というか、単なる手先の職人に終わっているデザイナーやミュージシャンと、クリエーターとしてのアーティストを分けているものがここにある。

もっと勇気を持とう。どんどん主張しよう。それができない人間は、舞台から去れ。偉そうな口はきかないでもらいたい。きみたちには単なる観客としてしか居場所がないのだ。その能力もないのに、表現者のマネをするのはヤメろ。泥縄式のつじつま合せをするぐらいなら、その分、本当の自分らしさとは何なのかを探す努力をしてほうがいい。これからは自分を、自分らしさを余すところなく表現できる個人だけが、「人間」と呼ばれる。その時代がきたときに、負け犬には居場所がないぞ。

(99/05/28)



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