つまらない人々





人々はなんで横並びを求めるのか。なんで大衆の中に紛れようとするのか。なんで異端をさげすみ、排除しようとするのか。本人はそれと意識していないまま、多くの人々が、このような歪んだ行動をとっている。このような行動は、人間本来のありかたからするとおかしなものだが、なんの疑いもなく日常的に行われている。実は、今多くの人々が抱えている問題の本質が、ここに隠されている。そして今問題になっている社会的な病理の根も、その多くがここにある。だからこの問題を解決できない社会は、新しい時代に生き残ってゆくことはできないということもできる。

これらの問題は、現代人の多くが、自分の無力さ、至らなさに本心では気付いていながら、それを直視する勇気がないことによって引き起こされている。自分にとってもっとも大事な問題から目をそらしてゴマかそうとするのは、小心者の小市民の特徴だ。失うものなどほんとはないくせに、今の自分を否定されることを何よりも恐れている。だから、自分の実態、本当の自分の姿や能力を見たくないということになる。そのためには、匿名性の塊である「大衆」の中に身をうずめているのがいちばんいい、というわけだ。

これからの時代、人々は、自分の足で立ち、自分の眼でものを見、自分のアタマで判断して行動することが求められる。「出る杭は打たれる」ではダメで、ヒトより飛び抜けたものを何か持っていなければ、人並み以下の報酬しかもらえない時代になりつつあることは、経済紙やビジネス誌の特集の切り抜きを持ち出すまでもなく、常識となりつつあるではないか。自分らしく活きる勇気が求められる由縁でもある。しかし、「大衆」に埋没したがる人達は、その能力を持ち合わせてはいない。ここに危機感と反発が生まれる。

もちろん人間である以上、潜在的能力は持っていると思う。だが、それを発揮するカギになるものを持っていない。それをに気付き、伸ばそうとする心を持っていない。自分自身、それを何よりもよく知っているくせに、やろうとしない。自分の足もとが危ういことは、実は本人がいちばんよく知っている。だからこそ、必要以上に反発し、なんとか数の力にすがり、現状のぬるま湯を死守しようとする。ここから生まれてくるもの。それはヒガみ、ネタみだ。人間の心の醜い部分がここに集約されてくる。

心が貧しい人間ほど、生け贄を求める。生け贄を自分よりおとしめ、「自分より劣るもの」として見下すことで、自分が安心する。そんなことをしたところで、自分の中の何かが向上するわけではないというのに。椅子取りゲームでは、最後の一つをめぐる争いが、いちばんしつこく、醜い。まさに、弱いもの同士が餌を得られず、共食いでどちらかが生き残ろうとする世界だ。それぞれ正しい道で努力すれば、共に生き残れたかもしれないのに、それを怠ったがゆえに地獄を見ることになる。

差別の構図。イジメの構図。そのすべての原点がここにある。弱いもの同士、スネに傷をもつもの同士が、相手を蹴落して自分だけ助かろうという発想。一人を排除さえすれば、後のみんなが楽してズルできることがわかったとき、この構図はもっとも醜くなる。まさに無言の圧力。実態のない「常識」、「良識」を振りかざし、生け贄になったもっとも弱い少数者を追い詰める。追い詰められた少数者は、もはや逃げ場がない。これこそいままで何度となくいってきた、「匿名の集団」の醜悪な行動だ。

一対一の差別、一対一のイジメなら、差別される側、いじめられる側も勝負は五分五分だ。ネタむ側の心が狭く、ネタまれる側の心が広い場合には、逆に諭され、自分の了見の狭さを思い知る結果となることも多い。しかし、このヒガみ、ネタみの構図が「匿名の集団対個人」の構図になると、救いがなくなる。後ろ向きで弱い人間も、集団がよりどころとなってしまうとたちまち恐い存在となる。一人一人では弱く、自立できないような人達でも、集団の中に埋没することで自分の居場所があるような勘違いをし、そこに安住することができるからだ。

かれらは、自分達こそ常識人、良識人であり、平均的人間であるがゆえに正しいのだと理論付ける。何のことはない、民主主義幻想の「悪平等」に基づく勘違いに過ぎないというのに。そもそも「平均的人間」なんてモノ自体が架空の存在ではないか。そんなものは、統計的にしか存在しない「シュレディンガーの猫」みたいなものだ。そんな「平均的人間」であることをよりどころにしたところで、本来何ら救いになるわけはない。だがそこに固執するというのは、彼ら、彼女ら自身、自分を持っていない空虚な存在だからだ。空虚な人々が、空虚な平均値に憧れる。よくできた笑い話だが、実態がないということでは、架空の存在も、空虚な存在もあい通じるモノがある。同類相哀れむではないが、そこに自分のよりどころを見つけることもむべなるかなだ。

この問題をつきつめてゆくと、そういう生きかたを許してきてしまった、というか、そういう人間であることを奨励さえしてきた近代社会、工業社会の歪みに行き着く。そう考えてみると、近代社会を前に工業化のもたらす人間疎外の問題を指摘したマルクスは慧眼だったかもしれない。余談だが、マルクスは、決してマルクス主義者ではなく、ましてや政治思想家や経済学者でもない。人類の理想郷とは何かを語った予言者ととらえるのがもっとも正しいのだろう。まさに最初にポストモダンを見通した哲学者といえる。もしかすると、今後マルクスの再評価が行われるかもしれない。

もう、こういう低次元の問題からは足を洗おうではないか。自分は自分、他人は他人。これが割り切れるヒトのほうが救われるんだし、未来があるんだから。百人いれば真実は百ある。一つの真実、一つの事実という発想は、西欧近代的な工業社会が生んだ歪んだ発想だ。人間の歴史全体を見れば、そういう発想でなかった時代、一人一人の心のほうを大事にしていた時代のほうがずっと長かったことに気付くだろう。実態のない良識や常識にしがみつき、匿名の集団の中に埋没していたいなら、それでいいではないか。ただ、それでは一人前の人格、人権は与えられないということ。それだけははっきりさせるべきだろうし、それが社会的な責任だろう。それでもまだ埋没していたいなら、それはもう、勝手にしろだ。もう好きにやってくれ。


(99/06/11)



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