年金改革問題によせて






年金改革法案が暗礁に乗り上げている。現行の制度では、経済の安定成長化や高齢化の進行と共に年金支給総額が増加し、制度的に破綻をきたすのは明確だ。だが、抜本的な改革が検討されないどころか、支給水準の削減や支給開始年齢の変更といった対症療法的な変更さえ遅々として進んでいない。利権にすがる怠惰な人間が多いと、世の中が腐ってくるいい例だ。しかしこの問題に関しては、さしもの自由党といえども歯切れが悪い。政治制度が社会改革の足を引っ張っているいい例だ。

右肩上りの高度成長が続いた中でバブル化・インフレ化し、元来の趣旨とは違ってきているが、年金制度とは基本的には自分で積み立てておいて、それを受給資格ができてから受け取る仕組だ。人によって寿命が違うので、損得はあることまで含めて、基本的には保険的なシステムだ。それが、経済の成長と共に、自分の積み立てた以上に経済の伸びを見越して多く配分されるようになった。それが誰の目にも破綻しつつある。

このように現在問題とされているのは、今後の経済の伸びや人口比率を考えると、今のような支給額を維持することが難しいという点だが、ことの本質はそこではない。年金制度の問題点は、この一種の保険的な制度が、公的制度そして義務化されているところにある。なんでこの自由競争の時代に、義務化された年金なんているんだろう。そこに疑問を感じるべきだ。はっきりいってしまえば、年金という制度自体が時代にそぐわなくなっているのだ。

年金制度は、工場で肉体労働者として働く以外手がなかった時代、労働者が何も財産を持てなかった時代の産物だ。当時、労働者は工場のラインに付属する、いわば生産システムの部分品だった。工場内で、当時の機械では処理できなかった、人間の労働力を直接必要とした部分を担っていた。だから、工場内で労働者として求められる体力がなくなれば、お払い箱になってしまう。

しかし、人間の一生はそれよりは長い。だから、工場でお払い箱になって以降の老後の生活の支えが必要とされた。このため、制度として年金が生み出され定着した。つまり年金制度は、その由来からして人間の価値は体力だけという考えに基づいている。しかし今の時代、人間のアイデンティティーをそういう肉体的体力だけに求める考えかた自体がそぐわなくなっている。まさに年金とは、いま終焉しようとしている工業社会の遺物なのだ。

そもそも生涯現役なら、年金など必要ないはずだ。そして情報化社会になれば、高齢化問題などなくなってしまう。年を取ればもちろん体力は衰える。しかし、知力は重ねる経験を考慮に入れれば、決して衰えない。いや、若い頃の勢いだけの考えかたとは違う深みが生まれて、新たな価値さえ生むといっていいだろう。知的生産がアイデンティティーである作家やアーティストの晩年の作は、確かに勢いは減るモノの、円熟味で見れば味わいがある。

このように知的生産は年と関係ない。知的生産においては、リタイアしようという発想がありえない。生きている限り、知的生産はできる。能力があるヒトなら生涯現役であるべきだ。直接生産に関わらなくても、人生のベテランならではの強味が活きる分野は多い。たとえば育児や託児施設を老人パワーを活用して行うとか、学校教育に人生経験豊富な高年齢層のノウハウを活用するとか、社会的にマンパワーが必要とされる分野で活躍してもらう手もある。

それに加えて、「努力なくして分けまえなし」が社会の基本ルールとなりつつある。社会に対して、自分でなくては出せない付加価値を提供するからこそ自分の居場所がある。それができなければ一人前のポジションは与えられない。こういう社会に移行しつつあるとき、社会からリタイアすることを前提にした年金制度を議論すること自体、なんと無意味なことだろうか。


もちろんある年齢を過ぎたら悠々自適、リタイアしたいという人もいるだろう。それならば、自己責任でお金をためるべきだ。それが社会的制度として義務化されるべき理由などどこにもない。年金の積み立て分も給料としてもらっておいて、使ってしまうもよし、ためて運用し、老後に使うもよし。全く個人の自由だ。こつこつ貯める、刹那的に使い切る、一攫千金を夢見て欲にくらんですっからかんになる。どうなろうともそれは自業自得。そもそも「社会」が口出しするようなモノではない。

すでに日本でも、退職金に見合う分を給料の中に繰り込んで支給してもらい、一時金として受け取らない制度が普及しはじめている。それなら年金も同じだ。積み立てたい人には、何らかの積立制度を用意すればいい。互助会的な、ある種の保険商品があってもそれはそれでいい。やりたい人が選択すればいいだけのこと。政府などの公権力が、義務化してシステムにするからおかしいのだ。

小さい政府を目指すなら、こういう個人の生きかたに関わる領域は、基本的に自己責任に任せるべきだ。それでホームレスが増えようと、それは当人が選んだ結果なのだから、それでいいではないか。そんなことに税金を使われるのも、そんな人を救うために保険料が使われるのもまっぴらだ。自己責任なんだから、人生にヘマったヤツはのたれ死ねばそれでいいではないか。のたれ死ぬ自由、首くくる自由があってはじめて自由競争が貫徹する。

これからの世の中は、そう割りきることのほうが大切になるというのに。なんとも既得権にすがろうという負け犬の多いことか。日本の風土は好きだけど、こんな腐った社会、つき合ってはいられない。後ろ向きのヤツは、社会からばさっとリストラだ。このぐらいドラスティックにやらなくては活性化できないし、これができれば日本の社会も経済も大復活を遂げるだろう。誰か、きちっとこういう主張をしてくれる「強い政治家」がでてこないもんだろうか。


(99/07/09)



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