現代貴族制の勧め





いつの世でも、カリスマ的なリーダーがいると、その威を借りて威張りだす中間管理職が多い。ライン型の組織であれば、確かに上からの命令はトップリーダーの意向という形で伝えられるので、「上司の言葉はトップの言葉」ということになる。ガバナンスが効いている組織であれば、トップの意向とは異なる勝手な命令が下されることはないはずである。しかし、ラインが強固な組織であればあるほど、その組織構造に頼りすぎてガバナンスがおろそかになることはしばしばある。

「失敗の本質」ではないが帝国陸海軍の問題は、そもそも立憲君主制でありその憲法に「神聖にして侵すべからず(政治的責任主体とはなり得ない)」と規定されている以上、責任を取り得る立場にない天皇に全ての責任を押し付け、その権威を借りて自分勝手な命令を部下に出しまくった師団長・連隊長達にある。現場が天皇の名を傘にして勝手にやり出すと、政治家はもちろん、軍の中枢もそれを止められなくなってしまうのだ。

昨今、官僚等の「忖度」が問題となっている。官僚のような狡賢い人間のやる忖度は、本当に相手のことを慮って配慮することではない。まさに今述べたような、トップリーダーの名前や威光を借りて、実は自分がやりたいこと、自分の得点になることを、「トップの意向だ」と称して実現させてしまうことにある。この場合、トップは権威があればあるほど利用価値がある。まさに助さん格さんにとっての「葵の紋所の印籠」と同じである。

そこにご老公がいなくても、印籠を出してしまえば周りの者はひれ伏す。「官邸トップの意向」も同じである。効き目があるのは、実態よりも印籠の紋所なのである。このような「虎の威を借りる狸」は、民間企業でも良くあらわれる。特に、日本でもカリスマ経営者が多かったバブル期には頻繁に見られた。セゾングループの堤清二代表や日本電気の関本忠弘会長など、社内でその名を使って勝手なことをやる中堅幹部が跋扈していた。セゾングループやNECがその後傾いたのは、そういう「忖度」の弊害と言える。

なまじ自分は他人より頭が良いと思っている秀才は、自分が頭を使えば多少ヤバいことをやっても自分より頭の悪い他の人々にはバレるワケがないと思うようになる。そんなことはなく、わかっている人はわかっているのだが、同僚とか仲間内の中でバレないと、世の中全体でバレないと思い込んでしまう。このあたりが、テストの成績がいいだけでずっとちやほやされて育った秀才のアサハカなところである。

百歩譲って、そういうヨコシマな心を持っていたとしても、倫理観がきっちりしていて「やりたくてもやらない」という「一線」をきっちり守っているならば、社会的には問題ない。男はエロい女性を見れば(インポテンツとホモセクシュアルな人を除けば)、誰でも痴漢したくなる。そういう欲望が湧きあがっても、「痴漢は犯罪です」と理性で押さえて実行しなければ、想像するだけでは犯罪ではないのと同じだ。

少なくとも「痴漢はしたくてもしてはいけない」という倫理観と同じように、私利を肥やしてはいけないという倫理観を持っている官僚の方が多いと信じている。確かに知っている官僚の中には、極めてマジメな人も多い。しかし、そうでない人が現実にいるし、そういう人達が問題を起こしていることは否定できない。こういうのは「反証」と同じで、そういう問題を起こす実例が一つでもあれば、仕組自体が不充分で問題含みということになる。

突き詰めて考えれば、官僚も政治家もビジネスマンも、人類としての公正さや理念より私利私欲を重視し、自分の利権を増やしたり既得権を守ったりすることしかしないのが原因である。つまり「あぶくゼニ」を欲しがるからいけないのだ。「企業の社会的貢献」ではないが、企業の利益というのは事業を通じて人類や社会に貢献したからこそ、お金がついてくるのである。いわば社会的なご褒美・賞金なのであり、最初から欲しがってはいけないものなのだ。

では、なぜ現代社会では拝金主義がまかり通っているのか。それは貧しい人が、偏差値で成り上がって大きなリソースを動かせる権力を握るからである。成り上がる目的自体が、金が欲しいからなのだ。あるいは、最初はマジメ純粋な動機があったとしても、巨大な金や利権を目の当たりにすると、欲が生まれて目が眩む。すなわち公正を期するには、金で心を動かされない人間だけが、リーダーになれるようにするしかないのだ。

そのためには多くの資産を持ち、いざとなればボランティアとして持ち出しで社会貢献のために政治家や行政リーダー、企業リーダーをできる人だけが、その地位につけるようにすればいいのである。これは、要は貴族制である。百歩譲って、立法府は民主主義であるべきだし、それが人々の望むものであれば、ポピュリズムであってもいい。その一方で、行政はいかなる場合も公正であるべきである。こここそ、ボランティア、社会貢献でやれる人だけが担うべきである。

これを現代貴族制と名付けよう。これは二元代表制をさらに進めたものと考えられる。予算執行や行政のお目付け役としての議会は、税金を納める主体である人々の代表を民主主義により選ぶ。その一方で政治と行政については、資産と教養を持ちリーダーシップの帝王教育を受けて育った「現代貴族」達がその担い手となる。成功して富を得た人の中でも、成金ではなく人格的に優れた資産家として認められるルールを作り、それに則って貴族の仲間入りができるようにしておけば決して差別にはならない。

20世紀後半の「民主化」により最も失われてしまったのは、こういう「人間性」を重視する社会的フィルターである。「金だけ」「偏差値だけ」といった、単純で一次元な軸だけで人間を評価し出すと、人間として深みのある人材がどんどん抜け落ちてゆく。テイクオフを目指す開発途上国ならば、そういう競争も「人材の傾斜配分」という意味では重要かもしれない。しかし、日本はもはやそういうフェーズではない。いい年をしてガキのケンカを続けるな。今の日本社会に一番必要な一言はこれだろう。


(17/07/21)

(c)2017 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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