性悪説経済学





学問というのは、基本的に抽象化した「根本原理」を見極めるものである。現実のあるがままを説明するものではない。もちろん、現実の現象を説明したり分析したりするのに「根本原理」が役に立つ場合もある。しかし、現実と理論はあくまで別のものである。きちんとした学者はこの違いをしっかりとわきまえて学問の道を探求しているだろうが、一般人からするとなかなかこの違いは分かりにくい。中には理論の追求から現実の答えが即出てくると勘違いしている人も多い。

これは、高校レベルのニュートン物理学を思い出してもらうとよくわかる。物理の授業では、全て「摩擦=0」を前提とした解析が行われる。摩擦がないということは現実的にはあり得ないが、摩擦を無視することにより加速度・質量・力の関係が単純化し、その本質的な関係が理解しやすくなるためである。いわば原理を理解するための「便法」であり、それが即、現実の問題解決に役立つわけではない。地球上で起こる現実の問題は「摩擦」の影響の方で起こっているワケだし、宇宙空間に行っても、他からの力の影響がゼロという環境は作れない。

こういう抽象度の高い「原理」を学ぶのか、現実的なテクニックを学ぶのか。多分、物理が苦手という人は、こういう抽象的で目に見えない概念を取り扱うのが苦手なんだろうし、理科系の科目でも物理より生物が好きという人は、抽象観念をいじりまわすより現実的に動植物の形と名前を覚える方が親しみが持てるということなのだろう。もっと現実的にクルマの停車距離や飛行機の飛行可能な最高速度を計算するような「物理」の授業も考えられるが、そうなると興味は湧いても実は難しくなりすぎて手に負えなくなるので、抽象化にとどめているのが現実である。

これは「学問」と「実学」との相克という形で、歴史と共に付きまとってきたことである。古くからアカデミックな歴史のあるヨーロッパでは、この両者の間の溝は深く大きい。アメリカや日本では大学でも最も主要な学部の一つとなり人気も高い「工学」は、余りに現世御利益を求めすぎる「現実的な研究」であることから「実学」とされ、ヨーロッパでは学問としては地位が低い。欧州の大学における「工学部」は、理論探求の長い歴史を背負った「理学部」と比べると、その学問的ステータスには雲泥の差がある。

同様の関係は、社会科学系では「経済学」と「経営学」との間に見られる。経済学は法学や哲学に比べると一段落ちるものの、ヨーロッパにおいても近現代の大学においては一応「学問」とされてきた。その一方で「経営学」は「実学」である。マーケティングに至っては、単なる専門教育だ。しかし、アメリカにおいてはMBA(経営学修士)のステータスが高いことからもわかるように、経営学部は大学の主要な学部であるし、日本においても経営学部や商学部の人気は高い。

前置きが長くなったが、経済学は人間の社会活動に対してあくまでも抽象度の高い「根本原理」を導き出すための「学問」なのである。そこで想定されている「社会」は極めて単純化・抽象化された、いわば「摩擦=0の物理系」であることを忘れてはいけない。その理論は、そのままでは現実のソリューションとならないのである。そのどこが問題か。それは社会を構成する全ての人間を、「全体最適に向かって論理的に行動する存在」として捉えるところにある。

そりゃ、こんな神様みたいな人だけで構成された社会なら、その動向を予測することもカンタンだろう。だからこそ、経済学により社会のダイナミズムの原理は説明できるが、そこから現実的な答えが出てくるわけではないのだ。十年ほど前に「行動経済学」という理論が登場し、「論理的に行動する」部分に対しては異なるモデルが導入されるようになった。確かに経済学としては斬新だったが、マーケティングをやっているものからすると、昔から当たり前のファクターを入れ込んだだけとも言えるのだが。

しかし、まだ現実離れしている。それは「全体最適」の矛盾だ。言い方を変えれば人間を「性善説」で捉えるか「性悪説」で捉えるかという点である。理論化するためには、より単純化できる「性善説」の方が「原理化」しやすい。このため、経済学にとどまらず、多くの社会科学・人文科学においては人間を「性善説」で捉えている。だが、社会問題を正確に捉えるためには、「性悪説」に立たなくては理解できない行動が人間には多い。学問からは、イマイチ有効な政策が導きだせない理由はここにある。

イジメや差別の問題が、どんな手を打っても手を変え品を変え頭を持ち上げて繰り返され、絶滅することができないのも、その原因はここにある。行政や学校の打つ手は、あくまでも「イジメは差別は悪いものであり、やめなくてはならない」という「性善説」に立ったものである。ここからは、現実に有効な施策は生まれない。「イジメも差別も人間の性であり、人類社会がある以上根絶はできない」という「性悪説」を前提に、どうしたらその被害を最小にとどめることができるのかを考える必要があるのだ。

経済学も同じである。経済学が扱うのは「公正で秩序正しい経済活動」であるが、それは人間の経済活動の中でも例外的な部分である。そういう「オーバグラウンド経済」は、産業革命以降巨大化したから目立つだけで、人間の経済活動の本質は今でもアウトローと結びついて行われてる「アンダーグラウンド経済」の方にある。その証拠に、先進国以外の世界では、今でも「アンダーグラウンド経済」の方が巨大で活発な国や地域がほとんどである。

これからさらに情報化が進むと、「オーバーグラウンド経済」はそのほとんどがオンラインネットワークの中でAIにより処理されることになる。そうなると、人間が直接手を触れる経済活動は、「アンダーグラウンド経済」の部分が再び主流となることになる。そのような時代の人間社会のダイナミズムや構造を予測するためには、「性悪説」に立たなくては全く歯が立たないのだ。性悪説に立った人間モデルをベースにした理論体系が必要とされる理由もここにある。

偏差値エリートたる官僚は、暴対法のように規制を強めれば「アンダーグラウンド」対策は可能と考えている。彼らのような秀才はそういう「論理的」な対応をするかもしれないが、一般の人達は規制されたからといって行動様式を変えるようなことはしない。もっと地下に潜って、表から見えないようにしてやり続けるだけである。そう、これからの社会は、SFの地底人ではないが、秀才が理屈で捉えようとしても捉えられない「地下構造」の方が中心になるのだ。そのような社会を把握することができるのは、「性悪説モデル」しかないのはいうまでもないだろう。


(17/08/04)

(c)2017 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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