「鳥な人」の時代





数学の研究者には、しばしば「n≧4」の高次元空間をアタマの中にイメージできる「怪人」がいる。こういう人達同士の会話が始まると、並の理科系の人間でも何を話しているのかわからなくなり、とてもついていけなくなる。まあ数学者の話には、最初からついていけないという人も多いとは思うのだが。これは、見えないモノ・経験したことのないモノは想像することが難しいという、人間の認知上の習性に基づいている。

ある程度工学系の素養のある人なら、「図面」を応用してみれば4次元空間、5次元空間ぐらいまではイメージすることは不可能ではない。図面とはxyz三軸ある3次元空間内の物体を、「x=0」「y=0」「z=0」として残りの2軸で表される平面上の3つの図形で表現したものである。4次元空間にはxyzに加えてもう一軸、たとえばw軸がある。この各軸をそれぞれ0と置くと4つの3次元の物体が出現する。

単純化していえば、x=0なら円柱、y=0なら三角錐、z=0なら球、w=0ならドーナツという具合に、それぞれ3軸づつとった3次元空間への写像は認識可能なので、それらを同時に体現している「存在」を想定すれば、それが4次元空間内の「ブツ」の姿と理解することができる。さらに1軸増やして5次元にしても、5つの4次元空間の「ブツ」をまず想定し、それを3次元に「展開」すれば手間はかかるが同様に想定することはできる。

このくらいまでなら直視することはできないが、いわばその「影」ぐらいは3次元空間にすることも無理ではない。これでもわからないという人がいるかもしれないが、それはもう適性の問題である。「シュレディンガーの猫」のありようを想像できないひとは、量子力学をきちんと理解することができないようなもの。キレイな景色を見ても、「絵葉書みたいにキレイ」と言うだけで、感動することができない人は掃いて捨てるほどいるのと同じだ。

さて、今回は数学者が変人だという話をするわけではない。斯様に軸の数が違い「次元」が変わってしまうと、高次元からはいくつかの軸を0にすればいいので低次元への互換性はあるものの、低次元からより高次元を理解し把握するのは極めて難しいということを言いたかったのである。そして、人間の能力というのは、偏差値のように一つの軸での数値の大小ではなく、どうやら「軸の数」そのものが異なっているということをいやがおうにも認めざるを得なくなりつつあるのである。

やはり決め手はAIである。一つの軸で勝負する限り、人間の認識・情報処理能力の限界から、早晩AIに勝てなくなることは目に見えている。しかしすでに一部のゲームでのAI対人間の対戦ではその片鱗が出ているように、人間がAIに勝つ「必勝技」は「自在に新たな軸を創造し提示する能力」があるところである。これこそ「創造性」の本質といってもいいだろう。よく言えばパラダイムシフトを起こす能力、悪く言えばルール破りを思い付く能力である。

ここで問題になるのは、この人間固有の能力といえる「自在に新たな軸を創造し提示する能力」が、これまた個人差が極めて大きいところにある。ここで着目しなくてはいけないのが、最初に述べたような「軸の少ない空間からは軸の多い空間のありようを察することが極めて難しい」という本質的な構造である。つまり、創造性に劣る人間からは、創造性に優れた人間を見極めることが困難だし、ましてやそれを評価することなど不可能なのだ。

出自や貧富の差などにより門前払いを喰らわし、機会の平等を妨げるというのは決してあってはいけないことである。しかし、これが結果の平等を担保するものではないのは自明である。人間には個人による能力差が歴然とある。平等とは、この「結果」を否定するものではない。福沢諭吉の「学問のすすめ」でも、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」は「生まれによる差があってはならない」という意味であり、結果の差異は認めている。

能力の差こそが、AIが実用化されるこれからの時代においては尊重されるべきである。いつも言っているように、能力とは「才能×努力」である。0に何を掛けても0。もともと「軸を生み出す」才能を持つひとが、腕によりをかけることによってのみ未来は拓けるのである。そらを飛べる人は、地を這うだけの人とは、住んでる世界が違う。恐竜は絶滅したのではなく、「鳥類に進化」し今に生き残ったのだ。これからの時代を引っ張ってゆくのは、平面でしか動けない秀才ではなく、3Dで動ける「鳥な人」である。


(17/08/25)

(c)2017 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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