喧嘩上等





私の人間関係の基本認識は「性悪説」にある。人間同士、最終的に信頼関係は成り立たないのがデフォルトだし、どこかの時点で相手は必ず裏切る可能性がある。このリスクを前提に、いかに人間関係や社会的関係を構築するか。そして、それを永続的な関係とするか。これが「性悪説」の神髄である。リスク含みのスリリングな関係だからこそ、ウマいインタラクションを創り上げなくてはならない。そのための戦略を考えることが大事なのだ。

この場合、相手の「裏切り」や「攻撃」をどう発動させないかというのが、関係構築のカギとなる。決め手となるのは、相互牽制のための「抑止力」である。これは、欧米流の国家間の外交とよく似ており、考えかたとしては同じである。強力な軍備を持ち、いつでも相手を撃破できる実力を備える。それを前提に交渉することによってはじめて、相手が簡単にこちらを裏切れなくなり、持続的かつ安定的な関係を構築することが可能になる。

なぜか日本においてはこれをきちんと理解している人が少ないのだが、国際政治における「軍事力」とはそういうものなのだ。軍事的な実力は高くなくてはいけない。最高の兵器を装備し、最高の練度の軍隊を持つ。しかし、それは闇雲に行使するために持つのではない。その実力を威嚇に使い、軍事的プレゼンスを交渉に活用できる「政治力」があってはじめて軍事力は意味を持つ。軍人もレベルの高い人なら、「居なくてはいけないが、活躍する状況になってはいけない」という自分達の役割をきちんと理解している。

これは人間関係においても同じである。腕力、知力、弁舌力等々。そのパワーの源泉は問わないが、相手を確実に撃破できる力を持っていればこそ、「性悪説」をベースにしていても最終的な相手の裏切りを防止することができ、良好な人間関係を安定的に構築することができる。パワーは持つが、それを行使するのではなく、そのプレゼンスを利用して相手に対する抑止力とし、安定的な人間関係を築く。これが大事なのだ。

さて、政治における「抑止力」が軍事力なら、こういう人間関係における「抑止力」とは何と呼ばれるものだろうか。それは「暴力」である。こういう構造がベースにあるからこそ、少なくとも「性悪説」をベースとする限り、暴力を否定することはできない。能天気な「性善説」の信者なら、絵に描いた餅のような暴力否定のお題目を信じるのかもしれないが、世の中には、隙あらば相手を裏切ってやろうと虎視眈々と狙う人間が山ほどいる。

そんな中でも暴力否定を主張する人がいる。彼らの主張は、実は負け犬の遠吠えなのだ。世の中で「暴力」といわれているもののほとんどは、競争してその結果強いものが弱いものに対して勝利したことを、負けた側から悔しがって言っているものである。最初、競争に参加した時には、フェアなルールとしていたものを、自分が負けたからと言って「暴力だ」とこじつけて勝者を誹謗しているだけなのだ。

競争とは突き詰めれば暴力の競い合いである。競争自身が勝負であり闘いなのだから、一旦勝負を受けた人間が結果次第でそれを後から否定するのはおかしい。「暴力反対」とは機会の平等があり、フェアな競争が行われている中で、結果として負けた人間が、負け惜しみを言っているだけなのだ。「負け組」の代表である「リベラル」や「革新派」に、「暴力反対」のお題目を唱える人が多いのはそういう理由であろう。

その一方で「そもそも競争がキライだ」というのであれば、それは立派な主張だと思う。それなら、最初から勝負せず競争に参加しないことだ。非暴力主義とは、すなわち競争しないことである。つまり、最初から棄権して競争のトーナメントに加わらず、勝者が貰う可能性のある権利を放棄してしまうのだ。これはこれで筋の通った主張だし、「権利放棄」は勇気のある行動として敬意をもって受け入れられるであろう。

こう考えてゆくと、「ハイリスク・ハイリターン」とは「喧嘩する気のないものは、果実を得られない」ということであることがよくわかる。重要なのは「喧嘩しないもの」ではなく、「喧嘩する気のないもの」である点である。「喧嘩も辞せず」という意気込みがなくては、リターンは得られない。日本の大企業が海外投資でことごとく失敗するのは、大企業の社員には、このあたりの意気込みが欠けているからだ。

この辺をよくわかっていない人が勘違いしやすいのは、暴力をすぐ行使したがるかどうかと、暴力を重視・肯定するかとは、大きく違うということである。これは、反核や反戦の活動家にもよく見られる現象である。核兵器反対なのに、核武装することのメリットデメリットを比較してデメリットの大きさを指摘して反対することなく、精神論だけで「核は嫌い」「核はイヤ」として議論自体を封殺してしまうのが、日本の反核運動であった。

暴力反対も同じである。自分がイヤだからといって、議論を封殺しているだけなのだ。暴力の効用を理解し、イザという時のためにいつでも喧嘩できる体制を作っておくことは、意味なく暴力をふるうこととは全く異なる。日本人は、この切り分けができるようにならない限り、世界で通用することはないだろう。喧嘩上等。喧嘩ができる人間にこそ、リーダーシップを取らせるべきである。偏差値エリート秀才に、この意味がわかるわけがないし、出来るわけがない。


(17/09/22)

(c)2017 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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