一億総コミュ障





情報化が進むとあらゆるものがグローバルなフィールドの上で展開されるようになるので、世界の共通語としての英語をマスターすることが必要だと、誰もが当たり前のように思っているようだ。インバウンドの旅行者も増え、街角で日常的に世界のいろいろな国の人を見掛けるようになってこともあり、多くの人が今まで以上に「英語」の必要性を感じているのであろう。

そのような「英語」をマスターすることの必要性は、ヨーロッパ文化圏においてはある意味正解だと言える。しかしこと日本においては、それ以前の問題が大きく立ちはだかっていることを忘れている。そもそも日本人には、母国語である日本語でもちゃんと相手とコミュニケーションできていない人が余りに多いのだ。自分の国の言葉でもキチンとコミュニケーションが図れない人が、一気に外国語でコミュニケーションできるわけがない。

めったやたらと言葉数だけは多い割に、何を言いたいのかさっぱり見えてこない人。それ以前の、日本語の文章にすらなっていない単なる文字列を語っているだけの人。さらにはもごもご言うだけで、言葉自体をきちんとしゃべることができない人。日本には、こういう人が余りに多いのである。これでは英会話の文例をどれだけ覚えて、鸚鵡返しに丸暗記の英文が喋れても、英語でコミュニケーションを取ることができない。

相手がそれに賛成するか反対するか以前に、自分のメッセージをきっちり相手に伝達できることが、コミュニケーションが成り立つ基本である。議論するにしても、賛同するにしても、まずインタラクティブなコミュニケーションが成立していることが前提である。しかし、日本語においてさえ自分のメッセージをきちんと相手に伝えられる人の方が、日本人においては少数派である。

多くの日本人、それも日本人男性においては、コミュニケーションがうまくできない人の方が多数派なのだ。「一億総コミュ障」と言ってもいいだろう。もちろん日本人男性では、発達障害やアスペルガーなどモノホンのコミュニケーション障害を持つ人も相対的に多いのは確かだ。これは別に今に始まったことではない。すぐキれるカミナリ親爺、無口で愛想の悪い職人など、昔からけっこうどこにでもいるティピカルな存在である。

しかし、こういう病的な人で「コミュ障」が過半数になるわけはない。過半数になる理由は、ハード的なコミュニケーション機能は持っているが、ソフト的なコミュニケーション能力に欠陥があるから、ウマくコミュニケーションできない人達が多いからなのである。相手と会話し、意思の疎通を図る能力が弱いのだ。日本人は「阿吽の呼吸」というが、実はあれはコミュニケーションが成り立っていないだけである。

なぜこうなるのか。それは伝えるべき内容、主張すべき意見そのものがないからだ。この場合、勉強した借り物の知識では、自分の意見にならない。自分で考え、自分で発見したものでなくてはいけないのだ。いろいろ読んだり調べたり体験したりする中から、自分自身が自ら見つけて会得したものがグローバルには「自分の意見」である。日本社会では、こういう能力を育み伸ばすチャンスがほとんどない。

近代日本では、文明開化以降「欧米先進国に追い付き追い越せ」が目標となり、そのための方策として欧米の先進技術やノウハウを丸暗記してデッドコピーすることを選んだ。追いつくべきベンチマークが目の前にあるのだから、ひとまずはそれをマスターするだけでよく自分で考える必要はなかった。当然、学問や教育の体系も、欧米の先端レベルを丸暗記してデッドコピーすることに最適化したものとなる。

そして、それを使って提供すべき商品やサービスも、欧米にすでにあるものをパクるだけでよく、新たなものを生み出す知恵は必要とされなかった。かくして技法だけを伝授し、それを使って発揮すべきオリジナリティーを育むことを無視する「知の箱モノ行政」が出来上がった。これを百年以上続けてきたのだから、「自分の意見」など持てるわけがない。その結果、追い付くところまではいったものの、そこから先へ行けなくなっているのが現状である。

ワープロ専用機が一世を風靡していた1980年代。街には「ワープロ教室」なるものが雨後の竹の子のごとく現われた。ここで行われていたのは、純粋に「ワープロ専用機」の操作法だけを教えるカリキュラムである。入力代行業のオペレーターの教育ならいざ知らず、操作法だけ教えてもワープロというマシンを活用できるわけではない。文章を書くニーズがあってはじめてワープロの機能が活きてくるわけだが、そのニーズは完全にユーザ任せで、全くフォローされなかった。

少なくとも、業務用でも文芸でもなんでもいいが、ある程度の分量の文章を書く需要がある人でなくては、ワープロを使う意味がない。筆者は当時実際の調査データを見たことがあるが、1980年代半ばの調査では、この直近の1年間に200文字以上の「文章」を書いた人は20歳から60歳の成人で約3割であった。それもかなりの部分がお礼状などの定型文的な手紙というオチまでついている。手で文字を書いた人んまで広げると、さすがに2/3以上の人が経験していたが、そのほとんどが年賀状などの宛名書きであった。

ハード的な「テクニック」だけにコダわり、ソフト的な「リテラシー」を無視する。これぞまさに日本の特徴といえる。このような状況を不思議とも何とも思わないのが、日本人の「常識」なのである。英語についても全く同じである。ハード的なテクニックだけ叩きこんでも、今ならAIでできてしまうような「人間自動翻訳機」が生まれるだけである。こういう時代だからこそ、交渉力や駆引きなど、コミュニケーションのリテラシーが重要になる。

そして、もともと欧米、特に英語圏の中心である米国では、言葉の綺麗さよりもコミュニケーションのリテラシーの方が重視される。だからこそ、能力が高ければ訛のある移民でも大成功できる。英語の「技術」ではなく、「英語圏の発想」を含めて学ぶのであれば、これは意味があることだ。自分で考え、自分の意見を持つ。曖昧にゴマかさず、しっかり「Yes or No」を主張する。これなら、日本語・英語を問わずコミュニケーション力が高まることになる。目指すべきは、こちらの道である。


(17/09/29)

(c)2017 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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