人間を磨く





日頃、警鐘を鳴らしたり、問題点を指摘したり、方向性を示したりという視点からは、われながら怒涛のようにテキストを発表しているが、一人一人の人間に立ち戻ったとき、何をすればいいのか、どうすれば生き残れるのかという視点に立ったものはあまりなかった。ある読者の方から、具体的に自分が何をすればいいのか、という問いかけのmailをいただいたのをきっかけに、その事実に気づいた。そこで今回はいつもとは少し視点を変えて、今後も力強く生き残ってゆける、クリエーティビティーのある付加価値人間になるためには何をすべきかというヒントを語ってみたい。

まず、これからの人間には何が大事なのか考えてみよう。どんな世の中になっても、最低限の人の道というのはある。ちゃんと人に会った時にあいさつできることとか、自分がされたくないことは相手にはやらないとか、基本的なモラルといえるものだ。最近はこれすらお手上げという、獣道にももとるような(動物だって、その「種」の間で守られている基本マナーってのはある)連中が増えているのは確かだが、これは言語道断だ。イエローカード、レッドカード以前の、試合に出してもらえないレベルの話。ここでは、もっとハイレベルな問題を語りたい。

いままで手を変え品を変え何度も語ってきたように、これからの世の中においていちばん大事なのは、ユニークでオリジナリティーのある発想をする人間であるということだ。自分でなくても、どこの誰でも思いつくような発想しかできないのでは、仕事ならばお金がとれないことにつながるし、それ以前に存在自体が希薄になってしまう。「流石」と思わせるユニークなところがない人間では、即「あんたは必要ないよ」ということになるのがこれからの世の中。このためには、ものマネではなく、自分ならではの新しい切り口、新しい視点を打ち出せるかが重要だ。

一見これは難しそうだが、実は気の持ちよう一つ。そのポイントは「軸はいくつでもある」というところだ。百人いれば、軸は百あるはず。だからこそ、百人分の居場所があるし、百人分の個性が活きる。もちろん、金になりやすい個性、金になりにくい個性はどこまでいってもあるとは思うが、程度はさておき、そのすべてが何らかのカタチで必要とされるというのがこれからの世の中の特徴だ。多くの人は先入観と過去の工業社会の常識から、「社会の価値軸は一つ」と思っている。しかしこれは勝手な思い込みだ。

だからまずは、「自分の個性が活きる土俵」をきちんと見つけ、そこでの強みを磨くことだ。これは時代の要請でもある。企業経営も、かつての右肩上りの高度成長期のような、大きければいいという発想では通用しなくなっている。規模だけを頼りに周辺の業種に手を出すコングロマリット経営や、川上・川下に手を出す垂直統合型経営は時代遅れになった。これでは不良資産を増やすだけというわけだ。これにかわって、自分の強みに集中的に経営資源を投下し、苦手な領域からは手を引く代り、強い土俵の総取りを図る水平統合型経営が主流になった。

自分の強みを磨くのも同じこと。強いところをより強くし、弱いところに無駄な努力をしない。全て平均点でも、一つも満点が取れないのでは勝ち残れない。一つでも必ず勝てる領域を持つことが、個人の人格レベルでも求められている。最近「ゼネラリストは、もはや通用しない」とよくいわれるが、それはこういうことだ。ゼネラリストでも全部満点をとれるゼネラリストなら問題はない。ゼネラリストの多くが、どの項目も合格点ぎりぎりのくせに「ゼネラリストでござい」とイバっているところに問題がある。

こういうゼネラリスト達は、本当に勝負したことがないし、本当に勝ったこともない。勝つ実力がないのだから当然だ。だから、おいおい自分の強味がどこにあるかもわからないということになる。そういう人でも、「実は自分が一番」というところがあるに違いない。人間である以上、そう思わなくては行けない。すなわち、「自分ならではの強みが、どこかにあるに違いない」と信じることからすべてが始まる。これだけは、他人頼みではダメ。潜在的な可能性も、自ら詰んでしまうことになる。虎穴に入らずば虎児を得ず。清水の舞台を飛び降りる勇気だけは自分で持とう。

その上で自分の強みを知るためには、自分を主観的に見たり、すでにある社会規範のステレオタイプから見たりすることなく、自らををいろんな視点からマルチに見ると同時に、色々な人からどう見えているかをきちんと理解していることが必要だ。それだけでなく、自分の強みのある分野は、すでに社会的価値が確立した領域にはないかもしれない。その上で、それが自分の強みであることを見抜くには、アタマが柔らかくて、先入観や常識にとらわれない、フレキシブルな見方ができることがカギになる。

これは、学歴とかどういう勉強したかとは関係ない。なまじ世の中の定説を勉強してしまうと、かえって素直に目を付けたり、ナチュラルに発想したりしにくくなる。子供の頃は素直にキレイなものをキレイと思い、欲や山っけのない好奇心を持てたのが、妙に社会経験を積むと、損得や他人の見栄を気にして行動、判断するようになる。このように心が俗世間の煤でくすんでしまっては、クリエーティビティーは発揮できない。それを越えて悟りを開き、個性を発揮するヒトもいるが、これには修行とそれに耐える精神力が必要だ。それなら、ナチュラルな自分を見つめるほうが、多くの人にとっては早道だろう。

このような物の見方は、日頃から常識や知識から考えるのではなく、自分の見たまま、感じたままから物事にアプローチするようにすれば鍛えられる。数学のテストでも、公式を覚えるのではなく、公式の意味するところや、公式がどうして生まれたかを覚えておけば、公式そのものを忘れても、また公式を導くことは容易だ。これができると数学が好きになるし、できないと数学が嫌いになるらしい。学校は知識しか教えないが、世の中で大事なのは知恵だ。このように知識として蓄積されたものは、考えて導けないことはない。ネットワーク化、コンピュータ化で、直接検索すること自体も極めて容易になった。

たとえば本を読んで、本の内容を覚えてもなんにもならない。そんなのはアタマに入れなくても、本を参照すればいいだけ。本を読んだら、そこで語られている情報や知識より、その著者がどういう考えなのか、何をいいたいのかを深く掘り下げてみてこそ意味がある。それはまとめれば200字程度に集約できるだろう。本から学べるもっとも大事なことがあるとすればここだ。あと、自分の考えが何かのマネになっていないか判断するためには、ある程度世の中の動きも知る必要がある。その意味では、色々な人の意見を読んでみることも必要だろう。

ある程度同じような考えのヒトがいるからこそ、自分の考えも受け入れられるし、必要とされることは確かだ。しかし、そこに迎合してしまっては、自分の居場所がなくなる。相手の前にまず自分だ。他人の目を借りてものを見、他人のコトバを借りてものを語るのでは始まらない。主語を自分にすること。自分の目で見ること。自分のアタマで考えること。常識と知識は封印しよう。アタマの中を空っぽにして、澄んだ瞳で状況を見つめてみよう。そうすれば自分がなにものかきっと見えてくるはずだ。

(99/07/23)



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