マイノリティーの強み





ぼくはLBGT関係にはかなり友人が多い。なぜかその方面の人達から相性がよく、飲み屋で親しい友達になることもよくある。それはぼくがなにより価値観の多様性を重視し、その多様性こそがこの世の最大の掟だと信じ実践しているからに他ならないだろう。そういう意味では、創価学会員でも解放同盟員でも、思想信条は違っても互いの価値観を尊重し合える人にはけっこう友人がいる。もっとも共産党さんとか既成左翼系の方は価値観の多様性を認めないので、なかなか親しくはなれないのだが。

いってみれば、マイノリティーの価値観を大事にする人同士は、お互いの立ち位置はさておき、価値観の多様性を重視するというところにおいては相手のスタンディングポイントを直観的に理解し合えるのだ。それは、マジョリティーに摺り寄り同化することなくマイノリティーとしての自分達の存在を認めさせるためには、複数の価値観が同時に存在する「価値観の多様性」を認めあうことが最大のカギとなるからだ。

自分が自分の足でしっかりと立てる立脚点を築けるようにする。かつてのマイノリティーの運動の基盤はここにあった。まさに差別に打ち勝ち、マイノリティーがマイノリティーとしてのアイデンティティーを持つカギは、セルフヘルプにあったのだ。ところが、最近その傾向がちょっと変わってきた。マイノリティであっても、自分の足で立つのではなく、誰かに甘えて自分達の存在を認めてもらおうとする人達が出てきたのだ。

自分達が自ら自発的にアイデンティティーを築くのではなく、マジョリティーから「認めて」もらうことによりアイデンティティーを持とうとする。これは自分で自分の居場所を築くよりイージーに見えるが、実は極めて危険なことである。独立した自分の居場所を作ることの重要性や意味をはき違えてはいけない。ヨーロッパには都市国家のような小さな独立国も多い。経済的には辛くとも、彼等はなぜ独立国として自分達を位置づけるのか。

ここには多くの示唆がある。「山椒は小粒でもピリリ」、これがアイデンティティーを持つことの原点である。違う存在であることを証明するには、自分自身で、自分達の存立基盤を持っていなくてはいけないのだ。いくら経済面等々で楽になるからといっても、マジョリティーに許しを乞うて、マイノリティーとして脇に置いてもらうのでは、自分達の存立基盤が危うい。マイノリティーが、マジョリティーの掟に甘えてはいけない理由がそこにある。

マイノリティーはマイノリティーで独立して、自分達のコミュニティーを自立的に築き上げてはじめて自分の居場所ができる。ところが昨今のLBGTとかの議論を見ていると、マジョリティーに受け入れて欲しいという願望がありありと感じられる。だが、それでは根本的ともいえる構造的な問題が発生する。数の論理に甘んじるのではなく、自分に誇りを持って生きることが大事なのではないか。そしてマジョリティーに甘える存在ではなく、自分達らしい誇りを持てる自分のコミュニティーを確立すること重要なのではないか。

マイノリティーとして生きるということは、マジョリティーの陰に隠れることなく甘えないで自信を持って生きることを意味する。しかし、最近のLBGT事情を見ていると、個性があり自分の足で立って歩ける人間ではなく、その他大勢の無名の人達になりたいという願望を強く感じてしまう。これはおかしい。まあ高度成長期の「バスに乗り遅れるな」に対して「わしもバスに乗せて欲しい」という文脈での議論なら、まあこういうロジックもわからないではない。

しかし21世紀の今では、グローバルには「個性的でなくては生きられない」時代になっている。その中で、マイノリティーの人達は、個性を発揮しようにも個性がないマジョリティーの人達とは違い、折角の個性を持っている。それなのに、なんで埋没しようとするのか。まるで「みにくいアヒルの子」のおとぎ話である。なぜ、個性を生かしてとんがった人生を生きようとしないのか。

世の中には、資金が余っている。面白いことなら金を出そうという人は、世界にゴマンと溢れているご時世だ。人と違う個性だけが、そのチャンスを我が物にすることができるカギである。そういう意味では、単に普通の人並に生きることしかできない人からすると、性的マイノリティーというのはスゴいアドバンテージだ。「LGBTの権利を認めろ」とかパヨクっぽい主張をしている人達は、欧米においてはなぜゲイのアーティストが多い理由を考えてみたことがあるのか。

人種のるつぼであるアメリカにおいては、アーティストやアスリートのスターが生まれる確率は、人口比ではマジョリティーである白人より黒人やユダヤ人、ヒスパニックなどマイノリティーの方が高い。あるいは一応白人であってもその中で二級と差別されているラテン系・東欧系の人の方が高い。努力ではどうしようもない天賦の才能は同じだとしても、マイノリティーであるがゆえにそれを活かし伸ばす環境があったと考えるべきである。

そこでスポーツや音楽で才能がある人が、どういう人生を選ぶか考えてみよう。エスタブリッシュされている差別する側の階級の人間であれば、秀才として生きる道をえらび、マジメに生きて安定したレールに乗るだろう。そもそもリスクを取ってまで自分の可能性を伸ばす必要がないからだ。一方差別される側は平等でないからこそ、実力で勝負できる世界を選ぶ。アカデミックな世界で大発見をする学者でも、非WASPのユダヤ系やアジア系が相対的に多いなど、同じ傾向がある。

これが真理である。人は他人と違うことで悩み苦しむ。しかし、自らそれを受け入れて乗り越えると、独自の個性が花開くのだ。マジョリティーと違う人間はイジメられる方になることと、イジメる方になることの隙間で常に苦しんでいる。それを自分で乗り越えられる人だけが、次の時代へのカギを手に入れることができる。企業家も同じだ。大企業の組織人になるのではなく、少数派としての自分の立ち位置を確立してはじめて、サラリーマン社長ではない起業ファウンダーになれる。

全ては同じ。自分自身がマイノリティーであることを認め、自助努力でその居場所を築き上げる。実はその努力をビジネス的に捉えるのなら、自分達ならではの新しいバリューチェーンを構築することと同値なのだ。マーケティング、マネジメント的には、マイノリティーとしてのアイデンティティーを確立することと、新しいビジネスモデルを起ち上げることは全く同値なのである。この事実を、世の中のマイノリティーの人達は知って欲しい。

企業家が事業を起ち上げる時、それはマイノリティーが自分達のアイデンティティーを確立するのと全く同じである。ベトナム戦争真最中の60年代末から70年代初頭、マイノリティーだった反戦ヒッピーの残党が、マイコン革命の洗礼を受け、そのバイタリティーを活かして自分達のアイデンティティーを確立すべく、シリコンバレーで起業しまくったという歴史的事実を振り返って欲しい。

「自分の目指す生き方が、世の中のマジョリティーの生き方と違う」という軸と、「マジョリティーに紛れて楽に生きていきたい」という軸は、実は独立している。長いものに巻かれてしまっては、単に数が正義と認めてしまうことになる。その瞬間に自分達のアイデンティティーは失われ、「異端」としての存在でしかなくなる。これでは、いかに「厚遇」が与えられたとしても意味がない。マジョリティーの代表たる秀才はもういらない。マイノリティーの代表たる天才だけが未来を拓く時代が、もうそこまで来てるのだから。


(18/02/16)

(c)2018 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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