コミュニケーション力の本質





最近では、資金調達の方法としてのクラウドファウンディングもすっかり定着した。最初、クラウドファウンディングは、チャリティーのようなFor Good系だったり、頭でっかちな理屈を並べた企画書で必要性を解く理屈系だったりというところから始まった。しかし、こういう前頭葉に訴えるやり方では、財布のヒモはなかなか開かなかった。結局、中々金が集まりにくい状態が続いていた。

その一方で、お笑い芸人が面白半分で始めたようなものは、すぐに予定金額が達成できる。いわば、オヒネリが飛んでくるのだ。そういう意味では社会派のドキュメンタリー映像には金は集まらないが、「バカバカしくて可笑しい」B級映画のクラウドファンディングは、すぐに予算を達成する。その結果、B級の映画やビデオを得意とする監督は、かなり制作がしやすい環境になってきている。

クラウドファウンディングは、マジメにやっているんではダメ。その仕掛け自体がエンタテインメントになっていなくては成功しない。成功のカギはウケるかどうかにある。何はともあれウケなくてはいけない。ウケれば金は集まるし、夢は実現できる。このカギになるモノこそコミュニケーション力である。コミュニケーション力という言葉は最近よく使われているが、若干誤解して捉えている人が多いように思われる。

漢字の書き取りや計算ドリルも、マジメにやれば公文式にしかならない。公文式はけっこうやっている子供も多いが、みんな仕方なく我慢してやっている。好きではないが、書き取りや計算の勉強だと思ってやっている。もっともクラスに一人か二人ぐらいは、こういうドリルが大好きという変態もいるが、普通はそうではない。公文式には教育効果はあっても、エンタテイメントにはならない。

しかし全く同じ書き取りや計算ドリルの問題であっても、高学歴タレントが漢字を間違えたり、おバカタレントが難しい計算ができたりとかして、その回答時の表情やリアクションを含め面白おかしく答えれば、ネプリーグなど人気クイズ番組になってしまう。これはもはやエンタテインメントである。一体どこからこの差が生まれてくるのか。

みんな勘違いしているが、コミュニケーション力とは、このようにマジメにやると犬も食わないものを、いかに面白おかしく見せて楽しいものにしてしまう能力のことである。大事なのはネタではない。見せ方なのだ。そして「見せ方」が上手いことがコミュニケーション力である。だからコミュニケーションは、人と人とが接する全ての場面で生きてくる。

ほぼ同じレベルのシェフが、ほぼ同じレベルの味の料理を作るとするならば、奥のキッチンで顔を見せずに作ってフロア担当が配膳するよりも、カウンター形式で作るプロセスから見せ、いろいろ話をしながら勧めてくれる店の方が、よりおいしく思うし、その食事が後々まで残る忘れられない記憶になる。この違いを作り出すのがコミュニケーション力である。

コミュニケーションする力ではなく、コミュニケーションにより付加価値を生み出す力といってもいいだろう。この違いは、理屈では説明できない。理論的、定量的に把握できる基準で捉える分には、先の例でいえば、公文式とクイズ番組とは「同じ設問」となってしまい違いが見えてこない。こういう構造的問題があるがゆえに、学校教育のような場ではコミュニケーション力を育てることはできない。

ここがこの問題を考える上でのボトルネックになっている。逆に言えばコミュニケーション力とは、教育とか努力とかで解決できる問題ではないということである。まともに会話もできない人が、当意即妙な反応で漫才をできるわけがない。とはいうものの、あるレベル以上の芸人たちの間でも、相手との会話で切り返したりリアクションしたりする能力には歴然とした差がある。

結局、コミュニケーション力とは天賦の才能なのだ。コミュニケーション力があるということと、面白いヤツであることはほぼ同値である。面白いヤツであることは、明らかに努力だけの賜物ではなく、才能を持っている人間が精進を重ねてはじめて得られる境地である。つまるところ才能のない人間は、才能のある人を見つけて、その才能に賭けるしかない。そういう意味では、天賦の才能の多寡で勝負するという、AI時代の人間に求められるべき能力の一つということができるだろう。


(18/02/23)

(c)2018 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる inserted by FC2 system