国民国家の終焉





我々が「国」という時、その前提として想定されているのは近代の国民国家のスキームである。少なくとも20世紀後半以降の先進国で育った人達は、これ以外の国家のあり方を直接体験したことがない。古代や中世においてはこれと異なったシステムを持つ国家があったことは、歴史の知識として知ってはいるが、そこで生きる人々が何を考え、どういうモチベーションを持っていたのかに関しては想像でイメージするしかない。

こういうバックグラウンドがあるからこそ、国民国家を「国家の一つの形態」として相対的に捉えることが難しい。歴史上の古代奴隷制王国や中世の宗教国家を理解する場合にも、現代の国民国家と比べた上で、それを古典的で遅れた国家制度として見てしまうことになりがちである。しかしそれでは、それぞれの国家形態がそれぞれの時代に繁栄した裏には、その時代におけるそれなりの合理性があり、最善かつ最適の形態であったことを見逃しがちになる。

国民国家は、あくまでも産業社会以降の産業社会と結びつき、そのような社会・経済体制に最適化したものとして成り立った制度である。このように、時代との関係で相対的に国家の形態を捉えなくては、国民国家の次にやってくる「国のあり方」がいかなるものであるか想像することすら難しくなる。ましてや変革のチャンスがあった時に、それをいち早く取り入れる可能性が大きく遠のいてしまう。

民主主義にしろ議会政治にしろ大統領制にしろ、西欧の国民国家で培われたシステムは、全て19世紀から20世紀という時代に固有のスキームである。国家の形態に「最高」も「唯一」も「絶対」もない。すべては、経済や社会などその時代時代の背景に適応し特化し最適化する中から変化しなくてはならない。そして、今や産業革命以降の産業社会を支えてきた経済・社会的なバックグラウンドが大きく変化している。

当然21世紀からは、20世紀までとはことなる新しい国のあり方求められることになる。今まで200年とは異なる国の姿が、これからは必要になる。それを探るために、産業社会の特徴を分析してみよう。産業社会とは、産業革命以降の科学技術の発達により経済が飛躍的に発展した時代である。しかし今から振り返ると、生産の機械化で生産力こそ爆発的に向上したが、情報処理は依然として人海戦術で行わなくてはならなかった時代であった。

長らくその時代が続いたが、人的リソースの投入を当初のブルーカラー中心から、情報処理を行うホワイトカラーに寄せることで対応してきた。だがコンピュータとネットワークの発達は、情報処理のサポートとして機械を使い始めた1970年代以降飛躍的な進歩を遂げた。当時夢見られていた通り、21世紀に入った今日になると、蓄積された情報の処理は機械が行うのが当然であり、AI等を駆使して情報を処理することができるようになった。

こうなると、人間がやることは情報処理「作業」ではなく、機械が処理したデータを活用し、新たなアイディアを創り出すことになる。これは個人の作業である。チームでアイディアを出す作業もないわけではないが、これはチーム内の個人が刺激し合ってアイディアを出しやすい環境を作るために行うものであり、組織という仕組みの中からアイディアが出てくるわけではない。

組織とは、人間の手作業による情報処理を、効率的に行うために生まれてきた目的合理的なシステムである。だからこそ人手による情報処理が必要とされていた時代には、組織が必要だった。国民国家も、それらの組織と組織間のガバナンスを担保するための組織として必要とされた。しかし、その根底が今崩れようとしている。こういう状況においては、産業社会的な国民国家はもはや必要とされないのである。

経済のグローバル化や、情報のグローバル化は、1990年代から言われてきたことである。すでに経済や情報については「中抜き」が起こっており、実質的に国家の影響力は小さくなっている。それ以上に、この領域においては先進国における国家的関与は明らかに「後手」に廻っているものが多く、政策的に対応を始めた時点では、もはやブームは終焉し周回遅れの状態で、政府の関与こそが葬送の鐘の音という見方さえされている。

もちろん何らかの形で「国」という存在は残ることは間違いないが、その機能や仕組みが近代の「国民国家」とは大きく変わるということである。ここで「国」に求められる機能は、個人が個人としての拠り所を持つ助けになればいいだけである。情報社会においては「自立した個人」がベースとなる以上、国家の機能は極めて限定され、小さい政府も小さい政府、いわば「極小の政府」で充分ということになるだろう。

欧米の精神的支柱になっているアブラハム宗教的な「一神教」においては、神と神の子である人間個人が一対一で対峙し、個別に「契約」を結ぶことが信仰の基本である。これを前提に考えると、情報社会の時代の「国」に求められる機能と、宗教に求められる機能とが極めて近似していることがよくわかる。「ある種の宗教国家がアイデンティティーの拠り所として求められる」というのが、これからの情報社会における国家のあり方と思われるが、果たしてどうなるのであろうか。


(18/03/09)

(c)2018 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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