新聞の罪





ジャーナリズムが伝えるニュースには、二つの情報がある。それは、一次情報(ファクト)すなわち「通信」と、二次情報(オピニオン)すなわち「論説」である。この両者は、情報としては全く異なるものである。メディアにおいては、伝えている情報がこの両者のうちどちらなのかを曖昧にしてはいけない。両方を同時に扱うことは可能だが、きっちり両者を峻別し、この情報がどちらなのかを明確にするのがルールである。

ファクトを説いているふりをして、オピニオンを押し付けるのは最悪である。このため、海外においてはこの二つの情報を伝えるメディアは、きっちりと役割を分けられている。通信社は一次情報を伝える役割。新聞やジャーナリズムは二次情報を伝える役割。この両者は、どちらもジャーナリズムを担うメディアではあるものの、全く違う立ち位置を持つ存在として捉えられ、自らそれを実践することを自らに律している。

その一方で日本の新聞は、その歴史をたどれば明治の自由民権運動を担っていた政党の機関紙からスタートしていることがわかる。そう言う意味では、二つのジャーナリズムの役割のうちオピニオンを主張する手段であったことは間違いない。それはそれで、自らの役割をわきまえ、その機能に徹して情報伝達を行うのであれば、二次情報を広めるジャーナリズムのメディアとして正しい姿になる。

ところが、日本の新聞は長らくファクトである一次情報のフリをして二次情報である自分達のオピニオンを伝えるという手法を続けてきた。これは元々プロパガンダを広めるための機関紙として生まれた新聞が、20世紀に入って小説やスキャンダル情報も掲載し大衆紙としての生き残りを目指した中で、ニュースもまたゴシップ的なネタとして取り上げていった中から生まれた「伝統」だ。確かに明治末や大正期の新聞は、今でいう「東スポ」的な記事ばかりである。

しかし問題が大きくなったのは、昭和に入って男子普通選挙が行われ大衆社会化が進展するようになって以降、新聞は既存の政治勢力に対抗する「大衆」の欲望を正当化する拠り所として、マスの力に支えられて権威化されてしまってからである。こうなると新聞は、お上の権威と湧き上がる大衆の欲望を結びつける形で、自分達のオピニオンを正当化するようになってきた。そして、新聞は自らを「ポピュリズムを煽れる存在」と認識し、それを権威の拠り所とするようになった。

余談になるが、日本が「男の甘えを貫ける男性社会」になったのは、男子普通選挙が行われるようになってからである。これは前にも論じたことだが、それまでの制限選挙においては、社会的な組織単位であった家を代表して、納める税金の使い道を監査する意味で、家を代表する「家長」にのみ選挙権があった。その一方で旧民法上家長が男性に限られていたため、結果的に制限選挙においては男性にしか選挙権がないことになった。

明治の民法においては、木に竹を接ぐ様なスタイルで中途半端に西欧の家族制度を取り入れた。そもそも武家や豪商、豪農などを除く一般の庶民は継ぐべき「家」などなく、大家族の中の一人でしかなかった。江戸時代に多くの庶民に「名字」がなかったのは、そもそも名字が具現すべき「家」に属していなかったからである。その関係で、それまで女系家族だった日本の家族制度は、中身はそのままで代表者だけが男性の家長になってしまった。

選挙権が個人ではなく家に属している以上、選挙制度においては構造的に男女差別があったわけではない。そう言う意味では、前に論じたように、普通選挙の前に男でも女でも家長になって選挙権を持つ「男女平等制限選挙」を実現すべきだったのだろう。しかし、1925年に男子普通選挙が実現してしまったため、男であるというだけで無産者でも一人前の選挙権を持つようになった。これが妙な男尊女卑の甘え社会をもたらした原因である。

それはそれとして、この「自分達はポピュリズムを煽れる」という過信が、新聞をして大衆を見下した上から目線で「啓蒙」する姿勢にさせた。ある種の思い上がりである。大新聞の記者は、「自分がペンを取れば、大衆はそれに従い、輿論はそちらを向く」という極めて傲慢な態度を取るようになった。高度成長期までの貧弱な情報メディアインフラの中で宅配制度を持っていることが、その傾向を増長させた。

今でいう「フェイクニュース」ではないが、有名な朝日新聞の「サンゴ礁落書き事件(落書きが「KY」だったというのが今となっては余りに出来過ぎだが)」をはじめ、新聞においてヤラセ報道が多いのは、そもそもファクトとオピニオンの峻別が出来ておらず、あえてそれを曖昧にすることで信憑性を持たせるというテクニックを平然と使い過ぎたからであろう。ミイラ取りがミイラになって、自らのオピニオンこそがファクトであると信じ込んでいるフシさえある。

その一方で、世の中は高度に発達した情報社会となり、人々は一次情報へのアクセスが容易になった。事件や事故が起きると、SNSなどには作為の手が入らない速報が、一般の人達により次々とアップロードされる。今やマスメディア自身も、それらのインタラクティブメディアに投稿された映像や画像を利用して報道しているほどである。多くの一般人にとって、過去と違い一次情報は極めて入手しやすいものとなってしまった。

こうなると一次情報のファクトのフリをして、自分達の主観的なオピニオンを押し付けるという、日本の新聞の手法は通じなくなった。これが新聞が衰退した理由である。こうなれば生き残り策はただ一つ。ファクトではなく、オピニオンだけを伝える「クォリティー・ペーパー」として成り立つビジネスモデルに変えることである。ニューヨーク・タイムスもワシントン・ポストも、サーキュレーションは数十万部でずっとやってきたのだから。


(18/04/20)

(c)2018 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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