能力ディバイド





デジタルディバイドは実は能力ディバイドであり、リテラシーや操作知識の問題ではない。これは筆者が1980年代から一貫して主張してきたことだが、ここに至って社会の情報化と技術の高度化が進み、誰の目にもリアルな問題として捉えられるようになってきた。確かにかつての情報機器はその限られたリソースをより多く情報処理の方に振り向けていたので、マンマシン・インタフェースが貧弱で使いにくい時代が続いていた。

しかし21世紀に入ると、その処理量も処理速度も生身の人間のニーズをはるかに越えるものとなった。ここに至って、やっとそのリソースを「使い勝手」の向上に振り向ける動きが活発化した。昨今流行っている「スマートスピーカー」のように、機械に向かっていることを意識せず音声でコントロールできるインタフェースなどその典型的な例であろう。実はその先の処理は、十年前のパソコンでもできることだったりするのだが。

ある意味人間が使うものである以上、使い勝手の向上によりリソースを割くのは当然といえば当然である。それを怠り、ひたすらハード的な機能向上を追求し、操作性について「足を靴に合わせる」ようなやり方をしてきた時代がおかしかったのだし、やっとその腸捻転が是正されたと見ることもできる。もはや人がデジタル機器を使う上での壁は消滅したと考えてもよい。

さらにアナログ機器と違い、デジタル機器は機器の側がインテリジェントに動作することができる。あくまでも人が道具に合わせなくてはならないアナログ機器とは異なり、機械が自分でどんどん勝手にやってくれる領域が拡大している。自動車における安全サポートや自動運転などの技術により、運転が下手な人でも安全で早くクルマを操作することが可能になった。

このようにデジタルはあくまでも手段なのである。クルマのように目的がはっきりしているものは、それに対して手段としてオプティマイズすることはたやすい。その分、「能力ディバイド」もストレートに表れることは少ない。そもそも自分が運転しなくても、公共交通機関を利用することで目的地に行くことはできるし、クルマでもタクシーを利用したり運転代行の運転手に運転してもらうこともできる。

能力ディバイドがストレートに表れるのは、デジタルを表現やモノづくりの手段として使う場合である。この場合のコンピュータやネットワークは、ギター、サックスのような楽器や、バット、ラケットのようなスポーツ用具のようなものである。それを使う人のセンスや能力をストレートに表現できるものでなくてはならない。もちろんマニュアルカメラがフルオートになったように、より表現に専念するためのサポートは可能である。

しかしそもそも文章力のない人が、ワープロを使ったからといっていい文章が書けるワケがない。これは30年以上前、ワープロ専用機やDOS用ワープロソフトがブームになった頃から一貫して主張しているメッセージである。世の中で「デジタルディバイド」と言われているもののかなりの部分は、実はこの「デジタル化により敷居が下がり、技術はあるが才能やセンスのない人が裸の王様になってしまった」というところなのだ。

AI技術が進めば、障害のある人がハイテク義手や義足によってサポートされ、場合によってはサイボーグのように健常者以上の記録を打ち立てることさえ可能になったように、まともな文章が書けず上手くコミュニケーションが図れないという障害のある人が、他人に意思を伝えられるようサポートできるようにはなるだろう。それはそれで、技術の発展がもたらした素晴らしい果実である。

しかしその状態は、実は当人がコミュニケーションしているのではなく、AIの方が忖度して相手とコミュニケーションしているのである。本人のケイパビリティーは、全く変わっていない。思っていることはあるのだが、それをうまく伝えられない人は大きな可能性が広がるが、そもそも何も思っても考えてもおらず、頭の中が空っぽな人では、いくらAIが頑張っても無駄に終わってしまう。

頑張って努力すれば何とかなる時代は終わったのだ。いつも言っているように「0」に何を掛けても「0」。才能のない領域でいくら頑張っても徒労に終わるだけ。これも口癖であるが、人はどこかに取柄があるもの。それが金になるかどうかはさておき、無駄な努力はやめて、その取柄だけ伸ばすようにするのが、これからの時代の生き方の基本である。

奇しくも、高級官僚の思い上がりと無能さが露呈する事件が続いている。高級官僚と言えば「秀才」の権化、点数を取ることだけに特化し、偏差値を上げるために一心に頑張って努力してきた人間である。情報化社会においては、そういうタイプの人間は必要でない。まさに彼らは世の中の変化を察知し、自分達が築いてきた世界の先行きの無さ・閉塞感を感じて自暴自棄になっているかのようだ。「秀才」という言葉が死語になる時代も近いのだろう。喜ばしいことである。


(18/04/27)

(c)2018 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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