空気





日本社会においては「空気を読む」ことが重視されてきた。今に伝わる戯作や古典落語などからもわかるように、少なくとも江戸時代の庶民生活においては、「空気を読む」ことがコミュニティーのメンバーとなるための必須条件となっていたことは間違いない。皆が皆「空気を読む」からこそ、昨今問題になっているような度が過ぎた「忖度」や「自主規制」を自ら先んじて行う人が出てくるのだ。

「空気を読む」時の「空気」は、その母集団によっても、時と場合によっても大きく変わってくる。その場の流れに乗っていない話題を突如出すことや、その場においてはタブーとなっている話題を出してしまうことが許されないのはもちろんだし、すでにほとんどのメンバーが納得している中身に対し、前に行なわれて答えが出ているような質問をまた蒸し返すのも常識外れである。

まあこういう過ちを犯すのは、アスペルガーとか発達障害とか病的な疾患を持つ人ぐらいで、多くの「常識人」にとっては「空気」は礼儀やマナーとほぼ同値のものとなっているといっていいだろう。世の中一般で共有されている空気に関しては、誰もが理解しているし実践しているといっていい。しかしこの「空気」は決して悪いことばかりではない。空気がマナーを決めるが故のメリットもある。

日本においては宗教や哲学的な支柱がないので、「空気」さえ変えてしまえば、マナーやルールがある時から一変してしまうこともよくある。20年ぐらい前までは、オフィスやレストラン、新幹線の中など喫煙できるのが当たり前で、煙草の煙が苦手な人のために「禁煙室」が置かれていたものだった。それが禁煙が一般化し、喫煙は厳重な換気装置が取り付けられた喫煙室でのみとなってしまった。

これなどは、「空気」が「喫煙は当たり前」から「喫煙者は悪」とさえ言えるような厳しいものに変化してしまったから起こる現象である。かつてはサラリーマンが電車の中で女性のヌードグラビアが掲載された男性誌を読むことは何とも思われなかったが、今ではその手の雑誌を公衆の面前で開けっ広げに読む人はいない。今でも悪質なセクハラ事件は起こっているが、こういうちょっとしたセクハラは空気の変化により絶滅したのだ。

逆にこの手の「空気」で問題になりがちなのは、「ローカルルールの空気」である。かつてはコミュニティー間での人の動きが少なく、その集団に属する人間だけに通じる「ローカルルール」が多かった。これは企業や組織などにおいても顕著に見られる。特に人間関係にまつわることなどは、そのほとんどがローカルルールといってよいだろう。しかし、社会が弾力化し、集団同士の接触、集団間での人の移動が頻繁に起こるようになった。

他の集団の人間は、その集団の「ローカルルール」など知る由もない。しかし、ローカルルールは空気であり成文化されているわけではないので、外側から見ることができない。当然、簡単に理解したり学んだりすることもできない。「空気」を読もうにも読みようがないのだ。おまけに、ローカルルールは環境によりその内容が180度異なっていることもある。類推することも難しい。

もっと問題なのは、組織の暗黙知が「空気化」されてしまっている場合である。企業の場合、成文化された社規社則や社内規定があるとは思うが、その運用が「空気」に基づいている場合が多いのである。出張経費でどんな中身の領収書まで落とせるかというようなところは、多くの企業において明文化されておらず、使う方も管理する方も、伝統的に「空気」に基づいて処理していることが多い。

これは特にグローバル化とともに大きな問題となっているが、グローバルスタンダードに合わせて暗黙知をルール化して「形式知」化を図る企業がある一方で、日本式をあえて「輸出」してしまう企業もあるなど、その対応自体も「空気」によっているという体たらくである。バブル崩壊以降金融機関の合併が相次いだが、あの監督官庁による規制業種である銀行でさえ「空気」による管理運用が多く、合併後のルールをどう構築するかが大変だったという。

人間集団である以上、「ローカルルール」が出来てしまうことは仕方がない。全てユニバーサルにしろといっても不可能だ。しかし、その弊害は防ぐことができる。それは自分達のやり方を相対化し、常に「他人は他のやり方を良しとする可能性がある」ことを理解することである。これはまさにダイバーシティ、多様性を認めることができるかどうかである。ところが日本人は、これが苦手なのである。

実は、日本人はすぐ「寄らば大樹の陰」で大樹を求めるので、自分の「大樹」以外の「別の大樹」があることを認めたがらないし、そういう発想すらできない人が多い。問題はここにあるのだ。相手も自分と同じ弱い人間、そして自分とは違う「大樹」に縋って生きている。これをわかって受け入れられるようになれば、自分と相手を相対化して捉えられるようになる。もし日本人に必要な「教育」があるとすれば、この点だろう。


(18/05/11)

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