甘え男





日本は男性社会だ、男尊女卑だといわれることが多い。1970年代までの世の中と比べれば、かなり改善されたことも確かだが、現状でも男性に甘かったり男性を優遇したりしている組織が残っていることも事実である。それを指摘するのに海外との比較を出すのはどうかと思うが、日本の中で比べても、多様性を認めて実力を正しく評価する組織がある一方、年功主義の硬直的な評価しかできない組織があることは一見してわかる事実である。

この問題は、日本の男性の多くが精神的に自立できず、他人にすがって生きることしかできないことに起因している。男性社会とは、甘え合う社会、無責任社会なのである。日本男性の多くは、およそ組織に甘えていて確立した自分を持っていない。互いにもたれ合っていれば、肚をくくって決断することもないし、誰かから責任を責められることもない。男性社会とはそういう、組織内匿名文化の社会である。

アーティストになったり、起業家になったりするごく一部の「まつろわない」男性は自分を持っているが、多くの男性はそういう芯の強さを持っていない。与えられた目標に向かってひたすら頑張るだけ。それも結果にコミットするのではなく、頑張っている自分をアピールするだけ。汗はかくが、結果は出せないというのが多くの男性の正体である。そういう「男共」の楽園として男性社会のコトワリは生まれた。

昨今「体育会的体質」が、ハラスメントやガバナンス・コンプライアンスの欠如の原因として問題視されている。いつも指摘していることだが、この「体育会的体質」は1年生からレギュラーを取ってしまうような、天才的トッププレーヤとは縁がない。というのも「体育会的体質」とは、より数の多い非レギュラーの上級生の居心地の良さを狙って生まれたものだからだ。

大した活躍もできないし、そもそも選手としての能力が劣る。黙々と汗を流す練習時間ぐらいしか自慢するものがない。そして、そういう部員の方が圧倒的に多い。彼等の居心地を追求すると、誰でも続けていれば地位が得られる「年功制」に行き着く。理不尽なイジメでも耐えていれば、自分がイジメる側に廻れる。才能も実績も何もなくても、これなら堂々と組織に甘えることができる。

余談になるが、現代のスポーツはグローバルレベルでは策略として「勝ちに行く」のでなければ、勝利は得られない争いになっている。戦国時代に鉄砲が伝来して以降、戦いのやり方が全く変わってしまったのと同じである。根性論で勝ちが拾えるような勝負ではない。その一方でどのチームも根性論でやっている国内リーグなら、根性論が通用してしまう。ただそれは、グローバルでは全く歯が立たない。これが現状である。

そもそも動物においては「オス」というのは有性生殖の「種付け」のために「いればいい」のであって、そんなに数はいらない。従ってオスは常に競争に晒されることになる。この原理は、人間の男性においても変わらない。男性というのは、そんなに数はいらない。そもそも女性のお相手をできるかどうかで選択される上に、そこから先は自分の精子同士でも競争がある。とにかく、男とは競争しと淘汰される存在なのだ。

そんな男が活用されたのは、産業革命以降の経済成長の中である。生物としてオスの数がいらないからこそ、余ったアタマ数がブルーカラーでもホワイトカラーでも、人海戦術に起用されることになった。日本でも高度成長期の経済成長は、労働集約的に対応によって成し遂げられた。とにかく員数がいる。そこで男手が重用された。しかしそれは、質を求められたのではない。単に数を求められたのだ。

そんな男を数だけ集めても、働かないし、効率は悪い。しかし、無類の経済成長がそれをちゃらにした。とにかく物がない。あればすぐに売れる。安かろう悪かろうでも、商品の数さえ並べればよかったのだ。だからこそ、安かろう悪かろうの労働力でも対応できたし、それを繰り返しているうちに、これが王道なんだ、これが日本式なんだという思い上がりが定着してしまったわけである。

男尊女卑と批判する人はいるが、質的に見れば日本の男性は「甘え・無責任」体質が染みついているものの、女性にはしっかり自分を持って自立している人が結果的に多い。日本の男性アスリートはチームプレイには強いが、個人プレイには決して強くない。その一方で、女性アスリートには個人プレイにも強い選手が多く存在する。このあたりの事実が、日本の男女関係の本質を示している。

もともと日本社会は母系制家族であった。藤原氏が権勢を誇れたのも、当時の貴族社会が母系制だったので、天皇も自分が育った母親の実家には頭が上がらなかったからである。資料を調べればすぐわかるが、当時の貴人は成人するまで母親の実家で育てられている。「外戚」とそう言う意味である。この伝統は脈々と受け継がれ、現代でも男たちは母親や妻にすがらなくてはなにもできず、一人立ちできない連中が多い。

こういう歪んだ組織ガバナンス、家庭制度が生まれてしまったのも、明治維新の時に文明開化の名の元に中途半端に欧米の制度を木に竹を接ぐように導入してしまったからである。男性未婚率の高さも、核家族などというキリスト教的な制度を入れてしまったためだ。そもそも「大家族・夜這い」が基本の日本の農村には、核家族などなかった。男女を巡るあらゆる矛盾はここにある。立ち行かなくなったら、元に戻す。山での遭難を防ぐのは、この「戻す勇気」である。家庭制度も同じなのだ。


(18/06/08)

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