将軍様





日本人の多くが世界に通用しない理由は、「甘え・無責任」だからである。何よりも「正統性」が欲しい。しかし、自分の足で立つ勇気も実力もない。とはいえそもそも自分には自信がない。こういう八方ふさがりの状況下で自分の「正当性」を担保するには、外側からもらうしかない。こうなると既に存在する権威にすがって、虎の威を借りたくなる。「甘え」の原因はここにあるのだ。

歴史的に権威に依存していればおいしい思いができたのは確かだ。このメンタリティーはそこから生まれてきたものである。このような「甘え」は、ある程度韓国の人達からも感じることができる。本当に日本が嫌いで、日本何する者ぞと思っているのなら、韓国の歴史の中には朝鮮王朝の水軍を率いて豊臣秀吉の侵略軍を撃退し祖国を守った、李舜臣将軍という英雄がいる。

明らかに日本に打ち勝ったヒーローがいるのだから、それを自分達の精神的な拠り所にしアイデンティティーとして日本に打ち克つことを誓えばいい。逆に今のように、日本に侵略されたこと、日本に蹂躙されたことを自分達のアイデンティティーにしていると、日本がなくなった時、自分達の存在意義も失われてしまうことになる。ここにもある意味、「甘え・無責任」な体質を感じざるを得ない。

もちろん、日本人にも韓国人にも、グローバルに通用し、世界の第一線で活躍している人も多くいる。とはいえ、何かの権威を借りなくては、自分達の拠り所が作れない人の方が多いことも事実である。一言でいえば権威の拠り所となる「将軍様」が欲しいのである。近親憎悪の理由もそこだし、北朝鮮が良きにつけ悪しきにつけ異常に気になる人が多い理由もそこだ。北朝鮮の生活レベルの低さ、民度の低さは問題だ。だが、将軍様がいることには憧れる。これはなぜだろうか。

その昔、コンテンツビジネスに関わっていたことがある。その時、権利を持っている番組のフォーマット輸出の可能性を検討した。その中で「水戸黄門」のフィージビリティーを調べたことがある。水戸黄門のフォーマットを輸出して、現地化した歴史ドラマを制作する。そのコンテンツが受けそうな国はどこで、受けない国はどこか。そこで各国の歴史的な事情を調べた。

水戸黄門のハイライトシーンは、身分を隠した黄門様ご一行が悪の手により窮地に立たされるが、堪忍袋の緒が切れるとまず武芸に秀でた助さん格さんが敵を制圧、黄門様が頃合いを見て指示すると葵の紋所の印籠を掲げ、みなひれ伏して解決というところである。つまり、将軍家の威光が葵の紋所に象徴され、それを掲げればすべてが解決してしまうところが、フォーマット輸出した場合の水戸黄門シリーズのキモである。

過去に於て王様や皇帝陛下がいて、王族に民衆の立場から悪を懲らしめた人がいたか、あるいは大衆がその権威を利用して楽したりおいしい思いをしたりした国を調べた。 まず中国は違う。「上に政策あれば下に対策あり」の国だし、上に対する忠誠心というものが歴史的にない国である。皇帝の地位や権威は高いが、それは砂上の楼閣でだれも支持したり信じたりしていないからだ。

タイ、ロシアはわりと素直にそのまま行ける。けっこう悪い役人もいたし、ホワイトナイトの王族もいた。李王朝の頃の朝鮮王国は、地方の役人がしばしば国王の権威を借りて権勢を誇示した事実があるし、世のために仕えるいい役人と私腹を肥やす悪い役人という対比もあったようなので、ちょっと翻案すれば使えそう。結果はこんなところであった。

さて、高度成長の頃は「終身雇用・年功序列」の「日本的経営」というのがもてはやされた。年功序列を基本とし、仕組に甘えて、従順な姿勢をしめていればそのエレベーターに乗れる。何もしなくても、権威に従っていれば序列が上がってゆくし、序列が上がるに従って、権威を利用して自分のおいしい思いができる。そういう組織を理想としている人は、今でも日本人に多いのは確かだ。

その最高峰が霞が関の官僚だ。それをマネた銀行や官需の多いゼネコン、重工メーカーなども酷似した体質だ。権威にすがろうとするし、外側や下のものに対しては、権威を傘に威張り散らす。そこにアプローチする過程である偏差値主義や受験競争も、その一部分として不可分の関係になっている。それはサムソングループ、ヒョンデグループに入社しようと、偏差値競争を繰り広げる韓国でも同じかもしれない。

要はこういう国の人は権威が欲しいし「将軍様」が欲しいのだ。北朝鮮を支持する人が韓国にも一定数いるし、日本にもいる。自分を優遇してくれる将軍様が欲しいということならば、日本の左翼はみんなそうだ。権威が大好きな日本の左翼やリベラルが、かつて権威主義的で中央集権で全体主義な共産圏に憧れていたのも、全く同じ理由だ。他人の権威をかりて威張ったり、何でも他人のせいにしている分には、自分は何も責任を取らなくていい。まさに官僚の「忖度」の構造そのものだ。

20世紀に現実化した共産主義国家のあり方は、哲学者マルクスが19世紀に考えていたヴィジョナリズムとしての社会主義・共産主義とは全く違う。エンゲルスによる政治的アジテーション化、レーニンによるロシア社会的なるものへの最適化。これらにより社会主義・共産主義は自分達の味方の強い権力を作って、それに甘えようという思想になってしまった。

多様性を認めるには、自分を確立して自分を持っている必要がある。他人頼み、集団頼みでしか自己を持てない人間では、相手の多様性を認めることができない。左翼が多様性を否定する理由はここにある。全体主義である。人権とか平等とか美辞麗句でゴマかしているが、結局自分を持てないものだから、数の力をバックに強い集団の威を借りることでしか、自分を主張できない。

ここまで考えてゆくと、これは偶然の一致ではなく、必然の帰結であることがわかる。ダイバーシティーや多様性を重視するためには、各々が自立していることが不可欠である。異質の集団同士で、どちらかがどちらかに依存しよう、甘えようと思ったら、両立は不可能である。逆に権威を借りて甘えて生きたいものにとっては、自立した多様性は「めんどうな厄介者」でしかない。彼等にとっては権威にすがって楽に生きられる全体主義こそ理想なのである。

今や世界は、新たな冷戦の時代に入った。それは「甘え・無責任」な全体主義者と、「自立・自己責任」な多様性主義者との対決である。全体主義者は数こそ多いが、一人一人はそもそも自分の足で立ちたくない連中なのだからけっこう軟弱である。多様性主義者は数こそ多いが肚が据わっている分手ごわい。弱腰の正規軍対精鋭のゲリラ。これは結構いい勝負かもしれない。ただ過去の戦績では、精鋭の米軍正規軍でもゲリラに勝ったことがないというのが歴史的事実なのだが。


(18/06/22)

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