σの壁





このところ世の中で繰り広げられる「議論」を見ていると、そもそも話が全くかみ合っておらず、それぞれがそれぞれの立場から勝手にほざいているだけということが多い。それでも当事者達は必死になって喧々諤々、口角泡を飛ばさんばかりに熱くなって自説を力説している。言ってみれば、日本語と英語、違う言語で違う内容の演説をし合っているようなもの。端から見れば実に滑稽なシーンである。

まあSNS上とか、バーチャルに議論だけぶつかり合って炎上している分には、近づかなければいいのだし、勝手にやっていてくれというところである。よほど暇なんだなとは思うが、それ以上関わり合いになろうとは思わない。ところが左翼の方とかは、「何とか反対運動」とかリアルな行動で、こういう議論を吹っかけて、自分達の価値観を押し付けようとしてくる。これは明らかに迷惑である。

言論の自由、思想信条の自由というのは、「相手に迷惑をかけない、相手に自分の意見を押し付けない」範囲においては、個人が何をどう思おうと他人からとやかく言われることはないということである。他人に迷惑をかけたり、他人に意見を押し付けたりする「自由」は、何人たりとも持ってはいない。自分の意見だけが正義と思い、すぐそれを相手に押し付けてくる方々は、価値観の多様性を否定し自由を認めない人達である。

さて、なぜこういう「議論のすれ違い」が起こるのか、それがこの十数年顕著になってきたのか、その理由を分析してみよう。議論がかみ合わないということは、そもそもバックグラウンドとして持っている認識や価値観が違っているということである。少なくとも、こういうディスコミュニケーションが現実に起きている以上、現代の日本社会の中には異なる価値観体系を持った複数の集団が存在しているということは間違いない。

やはりこの十数年声高に叫ばれるようになったことに、「階層化」とか「脱均質化」と呼ばれる現象がある。単一民族幻想ではないが、高度成長期以来日本人は均質的だと信じられてきたのだが、21世紀に入るとそういうくくりでは捉え切れない社会現象が頻繁に見られるようになったということである。これについては理由は簡単だ。日本人が均質だという捉え方が幻想だったのだ。

均質も、一億総中流も、実際にそうだったのではなく、そうあって欲しいという願望であった。それがいつの間にか「本当にそうなのではないか」と勘違いするようになった。その理由は高度成長期の構造にある。明治維新以来「追い付き追い越せ」のキャッチアップ戦略一筋できたのが近代の日本である。欧米の先進技術をハイスピードで取り入れることにより、貧しい発展途上国からスタートし、20世紀後半には高度成長を成し遂げた。

この段階においては、「貧しさ、ひもじさを脱し、豊かになる」という目標に突っ走っているという点においては、誰もが同じであった。そして、その目標への疾走は死にもの狂いの努力の賜物であった。細かいことはわからないが、みんな「追い付き追い越せ」で頑張っている。確かにこの目的意識が共有されていたということでは「均質」であったということができるだろう。

もう一つ、「40年体制」の官僚組織の連続性を隠蔽する意味で、政策的な面で「均質性」が強調されたのも確かだ。そもそも「一億総中流化」は総理府の「国民生活に関する世論調査」の報告の中で生まれ、「国民生活白書」で広まった言葉である。戦前の資産基準の「貧富」観ではなく、所得基準の「高低」で豊かさを図るようになったのも、官主導で意図的に行われたものである。

そういう意味では、日本が脱産業社会化し情報社会へと進化した21世紀になって、このような「まやかし」が通じなくなったことは理解しやすい。もともと一枚岩ではなく多様な価値観があったものを、高度成長という環境を活かし、官主導で「均質」に見せかけていたのが、もはやゴマかしきれなくなったということなのだ。バックグラウンドが違う多様な集団が顕在化したのも、同じように社会構造の変化でまやかしが通じなくなったからである。

結局これによって起こったことは、寄らば大樹の陰で責任を逃れてローリスクに生きてゆきたい「甘え・無責任」な人達と、ハイリスク・ハイリターンでも自分らしくチャレンジしてゆきたい「自立・自己責任」な人達との対立の構図である。かみ合わない議論は、大体この両者の間で起こっている。その上「甘え・無責任」な人達は、議論の主語を「世間」や「みんな」という実態のないものにするので、ますます論点がズレてゆく。

これはいつも論じていることだが、「甘え・無責任」な人は互いに寄ってくるので求心力が強く、ボリュームゾーンを形成する。一方「自立・自己責任」な人は一匹狼的にバラバラにわが道を行く。この力学が働くと、分布はおのずと正規分布になる。すなわち平均値のピークを中心に「甘え・無責任」な人がピークを作り、「自立・自己責任」の人はσの外側に位置する。

ここに「σの壁」が形成される。日本社会を厳然と分けへだつ、見えない壁。しかし、壁の厚みはかつてのベルリンの壁より、鉄のカーテンより厚い。社会に期待し自分が社会的規範に収まることで、保護やバラ撒きを求めるボリュームゾーン。何よりも他人により足を引っ張られることを忌避するσの外側。この両者の価値観がいろいろなところでぶつかっているのが今の日本なのだ。

したがって、こういう事例はあらゆるところで見られる。ちょっとタッチーなので扱い方が難しいのだが、昨今トランスジェンダーの方々の間で繰り広げられている「議論」を見ると、このようなバックグラウンドの違いがすれ違いを生み、それが大きなコンフリクトを発生させている事例をよく見る。トランスジェンダーの方には、ジェンダー意識の規範性が強過ぎるがゆえに、自分の肉体的な性別と自分らしさに違和感を覚える人がいる。

その一方で、社会的なジェンダー意識の規範自体が自分にとっての桎梏であり、それから自由な生き方をしたいがためにトランスジェンダーとなっている人もいる。どちらも現状に問題を抱えてるのは確かなのだが、理想として求めている生き方自体が、「社会を基準として生きる」ものなのか、「自分を基準として生きる」ものなのか、正反対の価値観となっている。それが、外側からは一くくりにされているのだ。

自分らしく生きたいもっと自由に生きたいというトランスジェンダーもいる反面、社会の規範の中にもっと収まりたいが今の状況は理想と違うというタイプのトランスジェンダーもいる。各々のタイプごとに、目指すべきソリューションは異なるし、解決策も異なる。これを十把一絡げの中で解決しようとしても、所詮無理である。

多様性を重視する立場からすると、そもそものバックグラウンドの違いを知りそこの是否にはタッチしないことが何よりも必要である。それには、互いに干渉することなく、両者が距離を置いて並存できる環境を作ることが前提となる。「甘え・無責任」な人は、身近に自分と違うタイプの人がいることが許せないようだが、距離感が問題を解決するだろう。均一幻想・同質幻想の幻から自由になった今こそ、そのチャンスであろう。


(18/07/06)

(c)2018 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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