左翼は不幸がお好き





日本語訳でもいいから、マルクスの原著を読んだことのある人は今の日本ではどのくらいいるのだろうか。ましてや「資本論」は実はマルクスの著書ではない(マルクスの文章や言葉をエンゲルスが切り貼りして換骨奪胎し、マルクスの考えとは程遠い政治的なプロパガンダにしてしまった)ということなど、左翼やリベラルであると主張している人達の中でも知っている人は一握りであろう。

マルクス自身は、ここでも何度も述べたように「人類の目指すべき理想社会」のあり方を示したヴィジョナリストの哲学者である。ある程度経済のメカニズムを語っているものはあるが、決して経済学者ではない。社会構造を分析する社会学者でもない。ましてや政治家や活動家ではあり得ない。マルクス自身は道しるべを示す人類の預言者であって、そこに行くための方策は示していない。

ただ産業革命後大きく変化し混乱する社会を目前にして、「生産力が高くなることは、社会的な富の蓄積が増すことであり、その経済力が大きくなれば大きくなるほど、誰もがその成果を享受できるようになる」ということを示したのだ。それは変化する社会に不安と不満を持っていた労働者層にとって希望を与えるものであり、それらの層を支持基盤としていた政治組織が自分達の理論的支柱として取り込んでしまった。

つまり、この時点で元来理想主義的なヴィジョンであったマルクスの思想は受け継がれず、当時のドイツの社会主義政党の主義主張や支持者獲得に合わせた形で改編されてしまったのである。ある意味社会主義政党は、その誕生時から理想やヴィジョンより票の獲得・勢力拡大しか考えていなかったのだ。このあたりのところは、1970年前後の政治の時代に既成左翼の活動や主義主張に疑問を感じたことのある人ならば、いわば常識として知っていることである。

さて、社会主義政党がその当初から理念やビジョンを捨ててしまったことから何が起こったのだろうか。それは人々が力を合わせて皆で高みを目指すような方向で努力するのではなく、今ある枠組みの中で「結果の平等」を目指す安易な「民主化」でお茶を濁すという方向性がビルトインされてしまったことである。現状に不満のある貧しい人達は、明日の100円より今日の10円に惹かれる。政党としてもそちらを狙った方が票になる。

かくして左翼・リベラルは、「不幸の共有」を目指す組織となってしまった。これもあって20世紀の鉄のカーテンは、「貧しい悪平等」が歴史的・伝統的に民族性と相性がいいスラブ諸国を中心に、そういう体質を持つ諸国にのみ共感を呼びそれなりに広がることになった。ある意味日本もその枠内に入っており、それなりに社会主義が共感を呼び広まっていたことも確かだし、官僚主導の行政もかなり社会主義的要素が強くなっている。

そういう意味では、日本で最強・最大の社会主義政党は「自民党・田中派」だったといえるのではないだろうか。官僚との一心同体のバラ撒き体制を構築し、列島改造という空前絶後の「所得の再配分」を実行しただけではなく、実際に当時の組合や革新政党の求める政策を率先して取り上げ実現していった。その評価はさておき、田中角栄氏が日本を事実上の社会主義国にしてしまったことは否定できない。

さて、こういう歴史的由来があるからこそ、社会主義には自助努力がなくなってしまった。これは大きな不幸である。マルクスにおいては、現状に我慢し努力すればこそ、理想の社会を実現できるというモチベーションが強くあった。そしてその努力こそが人類の未来を切り拓くという、自助努力が報われることこそ未来へのカギになるという思想が根強くあった。労働者一人一人が自覚を持ち、明るい未来を築く主体になれというのが、マルクスの本来の思想である。

しかしその一番大切な部分、人々一人一人が主役となるからこそ未来が開かれるという考え方が切り捨てられ、「我々社会主義政党がバラ撒くから待っておれ」という受け身体質が植えつけられてしまった。政治活動としては、その方がオルグしやすいし、ロイヤリティーは高まるし、とメリットが多いのは確かだが、それはとりもなおさず政党の利益だけを考えて、支持者のメリットや利益を何も考えていないのと同じである。

まさに「低きに合わせる平等」こそが、社会主義、左翼の特徴となってしまったのだ。本来は自分が不幸で、周りが幸せなら、自分が努力して幸せになることを目指すべきである。それで同じラインに並んで初めて、タメを張れるワケである。ところが他力本願の人は、自分が努力するのがイヤなので、周りの人間を引き摺り下ろす方向に動く。かくして左翼やリベラルは全てこの罠にはまってしまうことになる。

これが問題なのは、マイノリティーや被差別者も、「自分は弱者だから、公権力が守ってバラ撒いてくれ」という歪んだ方へ導いてしまった点である。日本ではフェミニズムも女尊男卑の女性原理主義になってしまい、平等や多様性を否定し「自分達だけが正しい」というプロパガンダになってしまっている。左翼がかった反差別運動は全てこういう要素を持っている。入口の差別はあってはならないが、解決策がバラ撒きでは新たな特権階級を作り、別の差別を生むだけである。

天は自ら助くる者を助くという、一見キリスト教の教えのようだが、実はヨーロッパにおいては古くから伝えられてきた格言をベースにしたマルクスの考え方は、ある意味ヨーロッパの哲学の伝統の上にキチンと載っかっている。バラ撒きがもはや続かなくなり脛齧りが成り立たなくなった今こそ、もう一度今は我慢して自分が努力するけれど、その結果社会がさらなる高みに進めれば、その成果は自分のものとして手の内に戻ってくるというマルクスの本来の教えを噛み締め直すべき時ではないだろうか。


(18/09/14)

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