イジメ、差別をなくすためには





左翼の人達は、断末魔というか最後っ屁というか、もはや自分達のアイデンティティーや社会的な必要性が失われていていることに気付いているのだろうか。最近の左翼・リベラルの皆さんの行動にはもはや理念もヴィジョンもなく、ただただ自分達の居場所をなんとか死守しようという、滑稽でもあり切なくもあるような、どたばたとしか言いようがないものが多い。思想信条の自由は何よりも大切なので、他人に迷惑がかからない限り、それはそれで勝手にやってくれればいい。

ただ、もともと「悪平等」で「不幸」な状態になり、皆で悲しみを共有することで連帯するのが大好きな皆様だけに、段々形勢が悪くなると、幸せな人や成功した人の足を引っ張って躓かせ、その転がる様を見て溜飲を下げるような行動が余りに目に付く。そこで相手が「不幸」になったところを見て、自分達と同じだと安心するわけだが、これは明らかに人に迷惑をかけている。

このモチベーションは、自分達と異質なものについては、力づくで自分達と同化させるかそうでなければ懲らしめるというところにあり、これは「イジメ」や「差別」と全く同じ「出る釘を打って安心したがる」精神構造である。左翼・リベラルの人達は、口先でこそ人権だダイバーシティーだと言いたがるが、やっていることはその正反対。人権侵害の中でもかなり悪質な「イジメ」「差別」そのものなのである。

このことからもわかるように、「イジメ」や「差別」の問題は極めて根が深く、その対策には人間の本質から問い直す必要がある。ここでも何度も言っているが、「イジメ」や「差別」に対して有効な対策を打つためには、「人間は性悪説である」ことからスタートしなくてはならない。人間は業として、必ず「イジメ」「差別」をしたがるものである。こういう起点に立たない限り、イジメ、差別への対策は不可能でなのだ。

この原因は、人間が「群れたがる」ところにある。「群れる」のは、ある種の動物的習性である。草食動物は群れることによって、集団の中から1〜2匹の犠牲は出す可能性があるものの、何百匹という集団そのものは無傷でいられる。相対的に小型で弱い動物にとっては、群れることは生きる本能である。ましてや人間は知恵があるので、原始人でも集団にまとまれば、相当に大型で凶暴な獣も犠牲なくしとめることができたであろうことも、習性の中には刷り込まれているかもしれない。

群れたがるとは、すなわち安全なところに逃げたがることなのだ。こういう本能が人間の中にビルトインされていると考えれば、「イジメ」や「差別」が人間の本能であり、避けられない行動であることは容易に理解できる。一人か二人、いけにえになる人身御供を出せば、集団そのものは無傷でいられる。そこに入れた人間は、自分達を守るために逃げ遅れて集まり損ねた「元仲間」を「イジメ」「差別」するのである。

この行動原理は、ニュートン物理学のモデルのようなシンプルなモデルに戻して考えればすぐにわかる。まずは2人しかいない集団を考える。そこに2人しかいない関係の時には、イジメも差別も基本的には起きようがない。何かが起こったら、互いに関わらないようにし、無視なりシカトすればいいのである。あるいは距離を置いて顔を合わさなければ、それで済んでしまう。2人がそれぞれ一山越した別の世界に住んでいれば、そもそも何も問題は起きない。

問題は3人になった時の関係性だ。3人の中で1対1の対立が起こった時に、残った1人がどちらかに付くかということで、全体の形勢は全く変わってしまう。これが危険なのである。2対1になれば、「2」の組は多数派である。すなわち1対1の状況での「残った一人」はキャスティングボートを握っているし、それによって自分の立場は安定する。その場の空気を我田引水でコントロールできると共に、「1」になったの方に対して自在に圧力を加えることができる。

つまり、群れた側は「正義」を手に入れた気になってしまう。こうなると2対1の「1」の側は一方的に悪とされる。これが「イジメ」や「差別」が発生する理由である。人の心の中には、「一つの集団には、答えは一つ」という正邪二元論の誤った常識が刷り込まれている。だからこそ群れることで正義を手に入れようとする。群れて集団を作ろうとするモチベーションと「差別」「イジメ」はまさに卵と鶏、車の両輪なのだ。

こと日本で考えると、ここに二つのハンディーキャップがある。一つには無宗教であるがゆえに個人対神という自己を見つめて確立する構図に持ち込めない点である。対峙する「神」は浄土信仰の阿弥陀様でもいいのだが、現世利益の宗教では幸運をお願いできても自分の内面を見つめる構図にはならない。無宗教というのは宗派に属していないということではなく、宗教を通して自分を高めてゆくという発想がないという意味である。

もう一つは、なんでも集団で解決しようとする公教育のあり方である。学校が「イジメ」や「差別」の温床になるのは、集団主義が余りに強く学校教育のベースにあるからである。本当に「イジメ」や「差別」の問題を解決したいのなら、群れさせず、常に1対1の関係性しかない社会にするしかない。それができない限り「イジメ」や「差別」は悪いことだからヤメましょうとタテマエを唱えたところで、何の解決にもならない。問題は、ここなのだ。


(18/09/28)

(c)2018 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる inserted by FC2 system