人間の証明





産業社会から情報社会へと社会のパラダイムシフト、根本的な変動が起こりつつある今は本当の意味で「地力」が問われる時代となっている。産業社会においては極めて有用とされ重用されていた「知識の多い秀才」や「器用な職人」は、AIをはじめとするコンピュータシステムを駆使した機械により完全に置き換えが可能となった。それは彼等の持っているコンピタンスが、コンピュータでも実現可能となり実用化されたからに他ならない。

ENIACが完成しデジタルコンピュータがこの世にあらわれた時点から、計算処理の速さにおいては、すでに人間のかなうものではなかった。そして1970年代になってUNIXが登場し、TCP/IPによるネットワーク上の分散処理が可能になった時点で、記憶力に関してもコンピュータシステムは人間を凌駕した。初期の将棋や碁のプログラムは、このアドバンテージを活かして、数多くの定石手を元に現状からの展開をシミュレートし、その枝を評価して切ってゆくことで打ち手を決定していたが、それでもけっこう強かった。

そして今やディープラーニングといわれるように、経験からの学習機能においても、コンピュータのそれは人間を凌駕するに至った。この時点で覚えるもの、学習するものに関しては、人間はコンピュータに勝てる要素はなくなったといってよい。しかし、それは恐れることではない。情報エントロピーという概念がある。新たな情報的価値を評価する基準であるが、これに基づくと「覚えること」「学習すること」は情報エントロピーを減少させ、新たなソリューションを生み出す上では全く役立っていないことがわかる。

実は記憶も学習も模倣に過ぎす、何も新たな情報価値を生み出しているわけではない。しかし、記憶も学習も昔は人間しかできなかったため、それ用の要員を抱えていないとビジネスも生産も学問も何も前に進まなかった。だからこそ「知識の多い秀才」や「器用な職人」が、トータルなシステムの構成要素として重要視され、それを育て・員数を確保することが経済的成長のための必須条件とされてきた。まさに、産業革命以前のマニュファクチャリングの段階では、工場に労働者の頭数を集めることがなにより重視されたのと同じだ。

彼等は、要は機械でありラインなのだ。「モダンタイムス」で茶化された世界ではないが、もともと人間的なことをやっていたわけではない。機械化できない部分があったから、人間を張り付けたというだけである。その時代でも、クリエイティブな仕事をしている人は歴然と存在した。それは製品をデザイン・設計ビジネスモデルを考え構築したりしていた人達である。フォードシステムの本質は、工場に働く労働者ではなく、T型モデルの設計者にあったのだ。

そう考えると、これからの時代でに求められる人間の要件は明確になる。情報エントロピーを下げることこそ、人間がやらなくてはならない仕事である。情報エントロピーを下げる仕事とはどのようなものであろうか。それは、今までになかったものや概念をゼロから作り出す作業である。まさに、クリエイター・アーティストとしての仕事こそが、人間がやらなくてはいけないことなのだ。逆にいえばこれができない人間は、生きている意味がないと言っていい。

金になるかならないかはさておき、人間何かの才能がある。筆者の学生時代の友人で、箸で飛んでいる蠅を捉まえられるヤツがいた。飲み屋に行くと、割り箸でよく実演していた。生で見ると驚くべき技である。金にはなりにくいし、それが社会的にどう評価されるのかはわからないが、これは才能である。そういう意味で、誰しも才能はあるのだ。それを伸ばしさえすれば、社会的には居場所はあるのだから安心して良い。

この場合危険なのは、今「アーティスト」としてもてはやされいてる人達である。人気アーチストの中にはもちろん真の意味でクリエイターである人も確実に多いが、実はパクりが器用な職人という人も結構多い。そっちの方が意外と金になっていたりする。その状況を客観的に自覚していればいいのだが、人間はウケ続けているとそのうちにそれが当然で正しいやり方だと思いがちである。それに溺れてしまうと、地獄が待っているだけだ。

今ウケているからといって、有頂天になるな。そのままだといつかドツボに嵌ることになる。これは、ファンや取り巻きが多くいるほど危険性が高くなる。熱烈なファンや取り巻きは、同じことの繰り返しでウケてしまうので、その連中だけ見ているとやっていることが再帰的になる。その先は、内輪ウケの地獄ループしかない。ここに入ってしまうと、世の中の流れから浮いてしまう。

現状ウケていることは事実だし、それはそれでいい。ビジネスになっているのなら、大成功だファンを大事にして、インタラクションを保つべきだ。しかし、それが世界の全てと思ってはいけない。これが思い上がりの発端になる。ここさえわきまえていれば危険はないだろう。昨今はインターネットの発達で、すぐ「いいね」が集めることが目的になる。しかし、それは繋がっている仲間の評価だ。世間のようでもあくまでも内輪である。

それは大事にすべきだし、それを大事にすれば食っていける世の中だ。だが、それが歴史に残る作品を生み出すことには繋がらない。このけじめだけは付けるべきだ。逆に創作という面では、社会のしがらみから自由になったクリエイターほど強いモノはない。社会の規範の外側には、いくらでもフロンティアがある。内輪ウケ的な予定調和を脱すれば、無限の可能性が待っている。

欧米でゲイのクリエイターが多い理由もここにあるのであろう。そもそも社会規範から離れて、一人で生きている。自分らしく生きること自体が、一つのメッセージとなっている。この立ち位置を得た表現者・創造者は無敵である。自分の無限の発想にキャップを嵌めるのは、世の中の常識や定説である。自分の思ったことをその通り実現できるのは、クリエイターにとっては至上の極楽である。この立ち位置こそ、人間が人間たる生き方を実現するためのカギになるのだ。


(18/10/05)

(c)2018 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる inserted by FC2 system