水爆マーケティングの終焉





なぜか日本では今でも信奉している人は多いのだが、マス・マーケティングの時代は終わっている。しかしそれは、多くの人が思っているようなスキームの変化ではない。一般に思われている「マスの終焉」は、「マスメディアが広告媒体として非効率になる」という文脈であろう。インタラクティブメディアを使ってターゲットに直接アクセスできるので、高額のキャンペーンにしないと効果が出ないマスメディアは無駄が多いという論理だ。

しかしそれが間違いなのは、今やテレビスポットはeコマースやオンラインゲーム、はたまたキャリア自身という、インタラクティブビジネス、インタラクティブメディアのまっただ中にいるクライアントばかりになってしまったことが如実に示している。もしインタラクティブメディアがマスのスポットキャンペーンに取って代わられるのであれば、彼等がテレビスポットのトップスポンサーにならなくてはならない理由が説明できない。

問題はそこではない。マス・マーケティングの崩壊とは、「ボリュームゾーンを狙うのがビジネスとして最良の戦略ではなくなる」ということである。費用対効果という効率視点から見ると、ヴォリュームゾーンという「最激戦地」のマーケットを主戦場とするのは、ゼロサムの消耗戦に引きずり込まれるリスクが高く、売り上げやシェアでは勝ち残れても、最終的には極めて効率の悪い事業となってしまう可能性が高いのだ。

過当競争に巻き込まれるレッドオーシャンを避け、競争相手のないブルーオーシャンを自らの主戦場とすることが、21世紀ではなにより目指すべき経営戦略である。かつての産業社会ではそうしたくても実現する手立てがなかった。そこで仕方なく底引き網で資源を掻っ攫うように、ボリュームゾーンを狙って数でこなすしかなかった。しかし情報化時代は、最適化が可能で、ブルーオーシャンマーケットを創り出すことが可能になった。

何よりも数を取るというのは、ある意味、情報社会になる前のマーケティングのやり方である。本当にコアになるターゲットも取れるかもしれないが、無駄が余りにも多いのだ。確かにスケールメリットを狙うのは、売り上げやシェアだけを考えるなら間違いではない。しかし、採算分岐点を越えて利益を喰ってまでスケールを求めるのは、経営の全体最適という視点では大きな問題である。

ところでキャンペーンという言葉が軍事上の「作戦」を意味するように、そもそもマーケティングの発端の一つが、第二次世界大戦と朝鮮戦争が終わり、1950年代のゴールデンエイジの繁栄を迎えたアメリカで、戦争中に軍隊の参謀が主要な就職口だったMBA達が、軍隊での作戦立案の経験を活かしてビジネスを戦略的にマネジメントしようと転職し、実業界で活躍始めたことに求められる。

マス・マーケティングはそういう意味で、第二次世界大戦から冷戦時代の軍事的作戦と、双子の関係にあるといってよい。この時代の軍事戦略は、敵の情報を確実に入手することも難しかったし、敵の生命線をピンポイントで断つことも難しかったので、とにかく大規模に破壊して、確実に敵の命脈を断つことであった。だからこそ大規模破壊兵器が求められ、その極みとしてメガトン級の水爆が開発されることになる。

敵に勝って敵の持っているリソースを全部自分のものに出来るからこそ、敵に勝つ戦略的意味がある。第二次大戦の終戦時にソ連軍がドイツに進行した時、ドイツの工場の生産設備を根こそぎ接収して工業生産力を伸ばしたのは有名な話だ。英米軍こそドイツを空爆して生産設備を破壊したが、そもそも敵を全部破壊してしまったら、敵をやっつけても得られる利得はない。

売り手市場、プロダクトアウトの高度成長期であれば、当らずとも遠からじで、「まあそのへんかな」というところに大量投下すればそれなりに売れたのは事実だ。その成功体験と、未発達な情報技術とがバランスする妥協点として、ボリュームゾーン狙いとのマス・マーケティングが戦略の王道として金科玉条のごとく重視されることとなった。プロダクトアウトの時代はそれでも売れていたから、勘違いが広がることになる。

それはピンポイントでターゲットにロックオンする技術がなかった時代、とにかくデカい水爆を作って、どんなに水準を外してもまあターゲットを破壊できるという戦略発想をした時代のやり方だ。それでもそれしかやり方がなかったのが、産業社会の時代の戦争だ。しかし、情報化が進みターゲットの情報をより安価かつ確実に入手することができるようになった。

その一方で、スーパーの棚からeコマースサイトになったことで「武器」の精度も高まり、ターゲットのニーズにピンポイントでアタックすることが可能になった。マーケティングでは結果が出るだけに、これは非常にシビアだ。「そこに確実に顧客がいる」確証を自分が持っているか、その違いは余りに大きい。ターゲットを確実につかんでいれば、最少のコストで最大の果実を得ることができる。

ビッグデータの時代といわれて久しいし、オンライントランザクションのログは毎日毎日確実に蓄積され続けている。かし、それを活用し切って新たなチャンスを切り開いたという事例はあまり聞かない。それは、まだマス・マーケティングの視点でデータを見ているからだ。ビッグデータが精緻になればなるほど、ビッグデータをどんなにマイニングしたところで、出てくる結果は「世間の常識」そのものになってしまう。

ビッグデータの使いかたはそうではないのだ。精緻な生活者インサイトを持っていて、有力な仮説を構築できれば、ビッグデータを使うことでそのリアリティーを立証することができる。仮説の証明手段としてデータを見るか、ボリュームゾーンを探す地図としてデータを見るか。ここが大事なのである。ビッグデータは大量破壊の水爆ではなく、ピンポイントを見定める武器なのだ。

数の大きさに目が眩むようでは、これからの時代は生きて行けない。ビッグデータはデータの量が大きいだけに、大きいモノ好きを引き付けるきらいがある。だがそれは違う。ビッグデータは、群衆の中から「一粒」をより分けるための武器なのだ。溢れるほどに多い人々の中から確実にターゲットをロックオンできる。破壊力の大きさではなく、一発必中の正確さが勝負を分ける。そのためには、データを見る前にターゲットを知り、見定めることが必要である。これが情報化社会の掟なのだ。


(18/11/09)

(c)2018 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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