社会という甘え





これはいつも言っていることだが、元来人間は一人で生きるものである。誰かに頼ったり、何かを期待したり、ましてや社会に頼ったりした時点で、それはもはや甘えである。甘えた時点で、対等で対称的な関係は成立しなくなる。自分の不幸を「社会」のせいにするのは甘えだし、「社会」にお尻を拭いてもらおうとするのも甘えである。日本社会の全ての問題は、この「甘え」にあるといっても過言ではない。

この問題は、社会と自分との関係性とも通底している。「自分」が存在してそれが社会を支えるのか、それとも「自分」は社会に依存して生きるだけの存在なのか。この二つの生き方の間には、分かちがたい壁がある。人間は平等であるべきである。自分の人生を生きるという意味においては、差はない。しかし、現実を考える上では、社会から自立している人と、社会に依存している人がいるという事実はどうにも動かしようがない。

自分の足で立ち、自分の責任で行動する人間にとっては、デフォルトでは他人は全て敵だ。但し、状況と構造によっては組める場合もあるし、組んだ方が有利な場合もある。これが人間関係である。ある状況下では組んで仲間になるからと言って、相手を全面的に信頼したり、相手に頼ったりするのは、バカなお人よしでしかない。これがわかっていないから、日本人には世界で通用しない人が多い。

国際的な条約や同盟、そこまで行かなくとも民間のアライアンスや契約でも、相手を全面的に信用してしまうがゆえに大失敗する事例は枚挙にいとまがない。これも甘え体質が生み出した悲劇である。もちろん日本生まれ日本育ちでも、自立・自己責任で他人に頼らず一切信用もしない人だって結構いる。そういう人は、グローバルに活躍している。その境目こそが、この「他人に甘えるかどうか」という点にある。

日本が女性や外国人、性的少数者などに対して「差別的で非寛容」だと声高に叫ぶ人達がいる。そういう人の意見をよく聞くと、全ての人に対する「自由・平等・多様性」を保証することを求めているのではなく、マイノリティーに対して「お上」が特別に保護を行い、いろいろな特権や優先策、バラ撒きなどを優先的に行ってくれと主張していることがよくわかる。これはもはや機会の平等を求める「人権問題」ではない。

確かに差別的な人達も一部にいることは確かだが、それはネオナチのように「人権先進国」と言われる欧米諸国にもある程度存在しているものである。逆に日本は大きい意味での権利の自由という視点からすると、宗教的な理由から同性愛を犯罪として処罰することはないし、逆に女性や高齢者に対して門前払いを食わせることは違法で処罰されるなど、やりたい人に対しては「機会の自由」をかなり認めている。

性的少数者に対しては、新宿二丁目のような世界最大のゲイタウンが存在し、そこに世界中から同性愛者が集まってくることに対して、なんら妨害をしないだけではなく、有名「観光地」の名所の一つとして、ヘテロの一般人達も今や日常的に話題にするスポットとなっている。さらには「二丁目発」と言われるトレンドが、ファッションや流行という分野では常に大きな注目を集めている。

このように見てゆくと、日本社会は「八百万の神」の国だけのことはあって、機会の平等に対してはかなり自由度が高いことが理解できる。少なくともこの30年ぐらいの社会のあり方を見てゆく分には、強く「やりたい意志」を持っている人間を押しとどめる力が働くことはほとんどない。その意味では、やる気がある人にとっては極めて自由度の高い社会である。そもそも20世紀の半ば過ぎまでは、アメリカでも人種差別があったぐらいであり、世界的にも決して人権が重視されていたわけではないことを忘れてはいけない。

才能と行動力さえあれば、誰がどんな職業につくのも自由である。日本相撲協会が女性を排除しているため、女性が協会の力士になれないのは事実であるが、アマチュアスポーツとしての相撲は女性でも参加できるし、実際に全国的な大会もある。さらにいうと、女性のプロ相撲の団体を作って興行としての「場所」を開くことは自由であり、内心どう思うかは知らないが、この興業には日本相撲協会といえど干渉も反対もできない。

確かに日本で「男性社会」と呼ばれる構造は、極めて組織依存的な「甘え」社会である。これについては今までに何度も論じてきた通りである。声高な「人権派」が求めているのは、結局この「男性的甘え社会」をそこから排除されがちなクラスターにも広げて、自分達も「甘え・無責任」に浸らせてくれという主張なのである。しかしこれは本末転倒だ。おかしいのは「甘えと無責任に浸っている男性社会」の方なのである。

我々はなによりも多様性を重視すべきである。従って、「甘え・無責任」がいいという人達を「邪な考え」として排除する気はない。「自立・自己責任」が好きな人も、「甘え・無責任」が好きな人も、それぞれの生き方を干渉せずに勝手にやればいいだけなのだ。間違いなく成功の可能性は「自立・自己責任」チームの方が高いのだが、そこまで含めて「結果を自分で受け入れるのなら、みんな好きにすればいい」というのが「機会の平等」であり、「人権としての自由」なのである。これだけは理解してほしい。


(19/02/01)

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