世代間戦争



今起こりつつある、パラダイムシフト。あらゆる分野で大きく価値観が変わりつつある。それはグローバルでオープンな規範と、ローカルでクローズドな規範の対立というスタイルを取ることが多い。しかし、もう一つの変化が同時に起こっている。パラダイムシフトのもう一つの顔。それは、世代間戦争の顔だ。世代間戦争といっても、かつて1960年代に起こったようなものとは違う。かつての世代間戦争は、団塊の世代とそれより上の世代の対立だった。今語るべき世代の対立も、その一方が団塊の世代ということは共通しているが、その構図は全く異なる。今度の世代間戦争は、団塊の世代とそれより下の世代の対立が基本だ。

この対立は、物事のとらえかたにある。団塊の世代の理性に対して、それ以下の世代の感性。いいかたを変えれば、理屈と感覚の対立だ。もっと世代論、時代論的にいうならば、最後の近代と、最初のポストモダンの対立ということもできるだろう。この違いはいろいろなところで見出すことができる。しかしもっとも端的で、もっとも重要な違いは、「生まれたときからテレビがあったかどうか」ということではないか。つまり、コミュニケーションのスタイルが違うことが違いの原点なのだ。だからこそ、物事のとらえかたが違う。「それ以下の世代」が「元祖マイコン世代」というのも、つきつめればコミュニケーションスタイルの違いにルーツがあるだろう。

過去の話でいえば、音楽における「反戦フォークとニューミュージック」という違いもこの例だ。わからないヒトからみれば、どちらも広い意味の「フォーク」と片付けてしまわれるこの二つの音楽。確かに細野晴臣氏は、前者の代表たる岡林信康氏のバックでも、後者の代表たるユーミンのバックでもベースを奏いているように、それぞれのジャンル内での音楽性の多様性を考えれば、曲想としてはオーバラップする部分も多い。しかし、曲の作り方が全然違う。前者はあくまでも社会起点のメッセージである一方、後者はあくまでも自分起点のメッセージが特徴だ。

これは、それぞれの世代の特徴を表している。団塊の世代は、新たな社会規範を持って古い社会規範に対抗した。ここには明確な対抗軸はあるものの、社会が規範のベースということは同じ。あくまでも社会があっての自分というところは、古い時代と共通している。一方団塊より下の世代は、社会ではなく、個人が規範のベースになっている。世の中がどうだろうと、まず自分の世界があり、その向こう側に社会がある。社会がどうあろうと、自分の世界はまず自分の世界だ。だからこそ、団塊の世代は企業に入ると「一味違ったモーレツ世代」になってしまった。それに対し、それ以降の世代はマイペースで企業社会と接している。このちがいは、社会規範対個人規範という、パラダイムそのものの対立だ。

もうちょっと違う見方をすれば、60年代末を代表するイベントである「ウッドストック」に主義や主張を感じた世代と、なによりもまず「かっこよさ」を感じた世代の違いと言えばいいだろうか。この違いは、日本のみならずアメリカにもあるようだ。それは、テレビの世代は元祖グローバルスタンダード世代でもあるからだ。これは同世代で話してみればすぐわかるのだが、「それ以下の世代」の人間なら、たとえば流行やヒットには、日米の差は少ない。時間差こそあるものの、音楽でも映画でも、ファッションでも、話してみれば驚くほど話題があう。まさに同時代を生きてきたと共感することができる。

ミュージシャンでも、コンピュータプログラマでも、自分のプロフェッショナリティー自体がボーダーレスな分野の人なら、この一体感はなおさらだ。専門的な話になればなるほど、国境を越えて話は合う。かえって同じ国内の違う世代の方が、話はあわない。これは日本で育った人がアメリカン・カルチャーにどっぷりひたっていたからというだけでなはない。アメリカで育った人も、日本のアニメや特撮にマニアックにこだわったりするのは、「それ以降の世代」ならではの話だ。いまやハリウッド映画の作り手が、黒澤・小津ではなく、日本製アニメからの影響を公言する時代だなのだ。

「それ以下の世代」の特徴は、演繹的に考えないこと。まず感じとってから考える。ここに基本がある。そしてこれが時代の流れとマッチした。そして変化がはじまった。逆に、そういう世代の人間が増えたからこそ時代が変化したということもできるだろう。世の中何で変化するかといえば、それは誰かリーダーや革命家が現れて、人々を扇動しムーブメントを起こすからではない。大衆たる人々一人一人が、無意識の内に価値観の転換を図ってはじめて時代は動く。もしかすると、こういうとらえかた自体が、世代によって違うのかもしれないが。

グローバルスタンダードへのパラダイムシフトに対応するべく、社会や企業の階層構造の垣根が崩れている。その中で、いわゆる「勝ち組企業」だけが生き残る。この動きは、日本でも明確になりつつある。外資系のみならず、日本企業の体質の変化もドッグイヤーで進んでいる。しかしドッグイヤーといえば、それ以上に注目すべきは市場の変化だ。動きが見えたらそこがもうピーク、あとは萎むだけ。見えないうちにつかまえなくては、チャンスはつかめない。そのためのカギがセンスだ。知識でつかまえ、演繹的に判断していたのではダメ。間に合わない。パッと答が湧いて、即座に正しい判断ができることが、チャンスをものにするカギなのだ。

役に立つ、から、楽しいへ。優れた機能、から、気持ちいいへ。パラダイムシフトは、付加価値のあり方も変える。新しい時代の付加価値は、近代にかたまった人からは出てこない。だからこそ近代の発想にかたまった世代から、ポストモダンの発想ができる世代へと、一気に世代交代が進む。それが21世紀への生き残りのカギだ。そのプロセスではコンフリクトはあるかもしれないが、世代交代を進めることが、日本社会が生き残るためのカギの一つであることは間違いない。ちゃんと役者はそろっているのだから。

だからといって旧世代の人間も、居場所がなくなるわけではない。前線から一歩引き下がり、実作業は自分が考えずに新世代の人間に任せる。その分、現場は任せてマネジメントに徹すればいい。いわば、絵描きでなく画商になること。この発想の転換が成功の鍵だろう。もちろんこれは世代論なので、世代の平均値の話。すべての個人がそうだというのではない。団塊の世代でも直感力の強いヒトはいるし、それ以下の世代でも理屈に頼る人はいる。しかし、個人レベルなら話はもっと簡単だ。いつも言っているように、それぞれの人が自分の強みを知って、それを生かせばいいだけのことだから。

(99/09/17)



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