生き様の衝突






価値観や意見の多様性を認めようとしない人達が、日本社会の中ではなぜ目立つのか。それは前にも分析したように、日本人の多く、それも主として成人男性のマジョリティー層が、個人としてのアイデンティティーを持ち得ていないために自立できず、組織や集団の中の一員という形でしか自己の存在を把握することができないことに起因する。彼らは組織を離れて一人で生きてゆくことができないのだ。

組織の外で生きてゆくことができない以上、結果的にその組織や集団への依存性が強くなる。こういう人たちが自分の所属する組織と異なる価値観や意見を持つ人と出会うと、自分のバックグラウンドが否定されたような錯覚に陥る。その結果、相手の存在を許すと世の中に自分の居場所がなくなってしまうかのごとく思うのだ。こういう妄想に取り付かれると、相手を攻撃し最後には相手の存在自体を否定するようになる。

相手の存在自体を否定したがる人というと、その極端な例として同性愛者を極端に嫌悪するホモフォビアと呼ばれる人達がいる。日本ではまあ口汚くののしる程度が関の山だが、外国などでは、同性愛者に出会うとリンチし果ては殺してしまうような暴力行為を行う人達までいる。欧米など一神教の地域ではそういう傾向が顕著である。そのぐらい危険な憎悪をはらんだ連中でなのだ。

心理学者の分析に基づくと、全く同性愛の気がない人は別に同性愛者に出会っても「物好きなヤツ」と思う程度で、「勝手にやってくれ」でかかわりを持たずおしまいである。基本的には無関心だし、関わりあいたいとも思わない。ところが、自分の中に同性愛的嗜好があるにもかかわらず、それを押し殺して生活している人は、カミングアウトして同性愛の世界を享受できている人が内心うらやましくて仕方ない。

それが講じて、「こっちはこんなに我慢しているのに、お前らだけいい思いするな」とキレるのだ。ホモフォビアの暴力性のエネルギー源は、ここにある。つまり自分の内面の矛盾を、相手への攻撃に転化することで何とか解消しようとする。「お前を見ているとうらやましくて仕方ないので、お前の存在が気に食わない」という感情が、相手への暴力を引き起こす。「リア充」憎しも同根である。

このように、異なる意見が実は魅力的に見えてしまう人ほどそれを強烈に排斥したくなる傾向があることも、暴力的に多様性を否定する人達を生み出す要因の一つである。こういう視点に立つと、組織依存症の人も、内心では個の自立を成し遂げ、自由気ままに生きている人に憧れているのかもしれない。そうしたくてもできない自分のふがいなさを、自分と価値観の異なる人を否定することで紛らわしているという要素があることも否定できないだろう。

こういう視点から分析すると、菜食主義者の中でも、理屈で菜食主義になり、実は肉を食べたかったり、かつて肉を食べていたときのステーキの味が忘れられないする人ほど、暴力的になり「ヴィーガン」になってしまうのだろう。ということは、共産主義者が暴力革命に走るのも、自分達にビジネスの能力がなく、資本主義的なマーケットの中では成功したくても絶対に成功できないことに気付いてしまったからだろうか。

世の中が平和に回ってゆくためには、どんな意見であっても多様な意見を持つことを許すとともに、それが最終的に多数から支持されようと、マイノリティーの意見にとどまろうと、その結果を素直に受け入れることが大事なのだ。これは機会の平等を尊重するとともに、その結果起こった「違い」に対してはそれを遵守するという「市場原理」と全く同じ構造である。

あらゆる異なったものに平等に機会を与え、その結果を受け入れるものは居場所を与え否定しない。これが大切なのだ。ヘイトスピーチや差別は実に醜いものだが、それらも多様な意見の一つであり、頭ごなしに否定するのは間違っている。もちろんその主張は道義的にも良いことではないが、それを法律やルールで禁止してしまったのでは、かえってアンダーグラウンドで根強い差別がはびこる原因となる。

逆にそういうブラックな意見も多様性の一つとして認めるなら、それが多くの人にとって「人の道」にもとるものであるとみなされることにより、「そういうことを言うのは恥ずかしい」という気風が社会に共有されるようになる。臭い物に蓋ではなく、衆人の目にさらすからこそ、自由競争に任せることにより市場原理により質の悪いものは引導を渡され淘汰される。

こうなってはじめて、ヘイトや差別に社会の側がレッドカードを切ることができるのだ。いじめも同じである。いじめを犯罪として封じ込めたり否定したりするのではなく、いじめを「人の性」と認めた上で、そんなことをやると馬鹿にされ他の人から相手にされなくなるという空気を作らなくてはいけない。それでもいじめたければやればいいが、そいつは完全に村八分状態になり、集団から孤立してしまう。

実は日本においては1980年代以降、いじめをするヤツはそもそもマジョリティーの中に埋もれていたいからいじめる側に回っているわけで、孤立することを最も恐れている。人身御供をいじめることで、自分がマジョリティーの一員であることを確認している。これがいじめが起きるメカニズムである。だから、いじめる側がマイノリティーになれば、いじめはぴたりとおさまってしまうはずだ。

結局、組織依存症こそ日本社会の最大の癌である。とはいえ精神分析的には、ギャンブル依存症も、アルコール依存症やタバコ依存症も、全ての依存症は同じ精神的病理がルーツになっている。ということは、組織依存症もまた同じ病気として捉えなくてはいけない。かつて成人の8割以上が喫煙者だったのが、現在では2割台に減少している。そういう意味では時間をかければ組織依存症も克服できるのであろう。

そこまで日本の社会や経済が持つのかという問題もある。これについては、自己を確立した個人の日本と、組織依存症患者の日本とが、互いに干渉せず存在して足を引っ張らないようにするのが一番の対症療法であろう。これができないと、グローバルな中で日本の社会や経済のリーダーシップを取るべき「自己を確立した個人」が、日本から飛び出してグローバルな中でだけ活躍するようになってしまう。これだけは肝に銘じておくべきだ。

(19/07/05)

(c)2019 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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