ポピュリズムの末路






最近の韓国の文在寅政権の迷走ぶりを見ていると、大衆迎合のポピュリズムが孕んでいる問題点が浮き彫りになってくる。センセーショナルな煽りによるストレスの発散と、バラ撒きによる民心掌握。きちんとした戦略に基づく経済政策や社会政策があるわけではなく、目先の短期的な利害によってのみ刹那的な舵取りをする。正義を装うが、結局は自分が権力の座にしがみついていたいという自己保身だけがモチベーションである。

ポピュリズムという意味では、戦前の日本の近衛文麿政権、東条英機政権と瓜二つの構造である。戦前の日本においては、エスタブリッシュされた層は軍需景気による景気浮揚策は支持していたが、戦争そのものに巻き込まれたり、戦争を起こしたりすることに関しては否定的だった。その一方で労働者や農民といった当時の言葉で言う「無産者」層は、現状の閉塞感を打破するものとして「戦争」を大いに期待していた。

さらに、20世紀に入って日本の大衆社会化が進むと、こういう「無産者」層の中の秀才が成り上がるキャリアパスとして、官僚や軍隊の士官がもてはやされるようになる。そういう意味では当時流行った「革新官僚」や「青年将校」と呼ばれる人たちは、基本的なメンタリティーが「無産者」であり、「無産者」に強いシンパシーを社会主義的な思想を持つに至った原因も理解することができる。

まあ、日本を戦争に追い込んだ両政権の末路をみれば、そういうポピュリズム政権がどうなるかは明白だ。そこまで極端な構造は歴史的に見ても稀な存在だが、今の韓国はそうなる危険性を充分内包している。とはいえ、アメリカのトランプ大統領の当選も、この前の参議院選挙を見ても「れいわ新撰組」や「NHKから国民を守る党」の得票の伸びも、目先の扇動で大衆に迎合するポピュリズム的な要素はそこここに見て取れる。

それだけでなく、「大きい政府」を求める政治自体がすでにポピュリズムをそのモチベーションとしている点を見逃してはならない。バラ撒いて欲しい民衆、バラ撒きマシンとしての公益法人に天下りの椅子を作っておいしい思いをしたい官僚、バラ撒きにより有権者におもねって選挙の票が欲しい政治家。表面的にはまさに「三方一両得」の構図だが、ここで一人負けしている人がいる。それは「納税者」である。

そもそも議会制民主主義は、もともと税金の使い道を監査するところから始まった。18世紀以降ヨーロッパ各国に生まれた議会においては、参政権は無条件で与えられるものではなく、税金を納めている人々が無駄に使われていないかチェックするための権利として勝ち取ったものである。自分が納めた税金が、王侯貴族や役人の懐に入らずに、ちゃんと社会のために使われているかどうかを調べるために生まれてきたものである。

そういう意味では、制限選挙の時代における議会は、企業における株主総会や社外取締役の機能と同様、ブラックボックスが暴走しないよう金を出した側がチェックするための機能であった。それが普通選挙になるとともに、大きい政府を生み出すバラ撒きマシンと化してしまった。それを防ぐためには、税金を納めていない人に選挙権を与えないのが一番いい。無責任に選挙権が与えられるからおかしくなる。今の状況は危険だ。

それでも今までなんとか「まだマシなシステム」として議会制民主主義が機能してきたのは、人々がそれなりに我慢をし必要以上の高望みをしなかったからだ。チンピラや愚連隊はいざ知らず、一般の庶民はマジメに生きていた。そこには我慢する、分をわきまえるという美徳もあった。しかし、人々が我慢を忘れてしまった時、このタガが外れてしまう。バラ撒けバラ撒けの打出の小槌だけを追い求めるようになったのだ。

人のふり見て我がふり直せではないが、誰が見ても恥ずかしい韓国の政権の動きはポピュリズムの哀れな末路を教えてくれるすばらしい反面教師でもある。韓国には、グローバルに活躍し実績を残している企業や国民も多い。そういう人からすると、今の文大統領の政策は余りに恥ずかしく忸怩たる思いを抱いていることであろう。結局社会主義や大きな政府が目指すものは物理学の法則を無視した「永久機関」であり、夢物語に過ぎないことを今学ぶべきなのだ。

(19/08/16)

(c)2019 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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