画一性としてのポピュリズム





韓国の文大統領の最近の所業を見ていると、20世紀大衆社会における政治のメカニズムが改めてよくわかる。政権を奪取した最初こそそれなりの大義名分を振りかざして自分達の正当性を主張できたが、朝鮮半島を取り巻く情勢の変化についてゆけず対応が後手後手に回るようになると、自分達の地位と権益を保全するためには見栄も面子もかなぐり捨てたストレートな政策を打ち出してくる。おかげでその本質が極めてよくわかるようになった。

さて朝鮮半島のもう一つの主役である北朝鮮の金王朝が確固として続く理由は、日本人から見るとなかなか良くわからない。ましてや西欧から見ると「謎の国」である。強権的な恐怖政治にその政治権力の根源を求めるインテリも多いが、それでは70年近く脈々と続く理由が説明できない。ましてやちゃんと「政権移譲」ができ、3代に渡ってお坊ちゃまが次の時代のリーダーとして君臨できでいる要因を分析することなどできない。

この理由は、金王家の側ではなく、北朝鮮の国民の側に求めなくてはならない。脱北者はいるものの、それでも多くの国民は国内に住んでいる。そして暴動も起こさずボートピープルにもならない。強権と相互監視だけではこのような「平和」を70年も続けられない。やはり人々が金王朝のご威光に期待しすがっているから、離反せず権力の座に居続けられるのだ。

ニュースなどで紹介される北朝鮮の人々の姿は、いかに「営業用」の映像といえども、結構素直にその威光を受け入れありがたがっている様子が伝わってくる。北朝鮮の人々が「将軍様」を求めているからこそ、神輿を担がれて君臨できる。旧東独を含む東ヨーロッパの旧共産圏の地域では、鉄のカーテンが崩壊して30年経った今でも「その時代」を懐かしむ人が多いという。そしてそういう人々が排外主義的なナショナリズム政党の強烈な支持者になっているという。

別にこれは韓国・北朝鮮の人々のメンタリティーを揶揄したり批判したりしようとするものではない。そうではなく、人類に共通するある種の意識や行動の様式をそこから読み取ることができるといいたいのだ。まあ、我々日本人も天下の副将軍水戸光圀公が、葵の印籠を高々と差出し、一件落着に持ち込む時代劇に溜飲を下げているのだから、そのルーツはあまり変わらないのかもしれない。

そういえば昔コンテンツビジネスに関わっていた時代、権利を持っていた「水戸黄門」をフォーマットを輸出できるか、そのフィージビリティーを調査したことがある。フォーマット輸出とは、古い言葉で言えば「翻案」である。設定をその国に変えてヒットドラマを作れるかどうか。具体的には、近世の王朝の王様の叔父さんがお目付け役となって、権威を借りて威張っている地方役人を一喝して庶民を救うというストーリーが成り立つかである。

その結果、タイのチャクリー王朝・チュラーロンコーン大王ことラーマ5世の叔父さんと、ロシアロマノフ王朝のエカテリーナ女王の後見役の叔父さんという設定なら、この両国では結構ヒットするだろうということになった。これらの国々では、けっこうこういうメンタリティーがあるのである。そう、一言でいえば「庶民が権威にすがりたがっている」のだ。だからこそタイでは今でも王族の人気が高いし、ロシアでは「赤い貴族」が支配する共産主義国家が成立した。

20世紀においては、イデオロギーとかわけのわからない屁理屈に惑わされがちだったが、大衆社会には「権力におもねって、バラ撒きに預かりおいしい思いをしよう」という人達と、「自助努力により、本当の意味で自分のやりたいことを実現しよう」という人達と、この2つのタイプの人達しかいなかったのだ。私たちの言い方を使えば、前者が「甘え・無責任」な人達で、後者が「自立・自己責任」な人達である。

このスキームで考えるとファシズムと共産主義は全く同根であり、大衆のおもねる気持ちが権力の基盤となっている。ただその権威の作り方が少し違うだけである。もっというと、そのバラ撒きや依存症の度合いをちょっと低くして、既存の政治勢力の政治家が戦術として取り入れたものがポピュリズムということができる。日本でも先の参議院選挙で議席を伸ばした「れいわ新撰組」など、まさにこのやり方そのものである。

マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」ではないが、神との個の契約の意識のある新教では、自分に与えられた運命を受け入れ、自助努力をしない限り地獄に落ちてしまう。こういう意識のある国々では、「甘え・無責任」指向の人もいるだろが、「自立・自己責任」という意識のある人の方が多い。そういう社会では普通選挙による民主主義が導入されても、曲がりなりにも機能する。

一方社会の主流が「甘え・無責任」な人々の地域では、普通選挙による民主主義が導入されると「おもねっておいしい権力」が選ばれるようになる。旧共産圏は、宗教の坩堝だった旧プロイセンを含む東ドイツを除けば、キリスト教圏ではカトリックや正教会系のエリアだし、あとはアジアとヒスパニック(これもカトリック系)のエリアである。社会主義・共産主義はポピュリズムの最たるものと思えば、いろいろなことが肚落ちする。

かつては、共産主義と自由主義の冷戦もあった。しかしその本質はイデオロギーではなく、多様性を排し権威にすがりたい人達と、多様性を担保した競争原理を重視する人達との対立だったのだ。そして、その対立は建前としてのイデオロギーをかなぐり捨て、ストレートに多様性の排除と多様性の重視という対立になった。革新・リベラル・左翼が多様性を否定し、保守・自由主義・右翼が多様性を尊重するという対比は、20世紀のそれと大きく異なり一見理解しづらいが、こういう構造を見てゆけばすぐにわかるであろう。


(19/09/13)

(c)2019 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる inserted by FC2 system