無垢のリーダー





リーダーは徒党を組まず、他人や組織に頼ることなくに自立している必要がある。これは別に、むやみに他人と対立しろというわけではない。そういう風に解釈してしまうのは、自分が組織に頼って自立していない証拠である。左翼やリベラルの支持者がそうであるように、自分に自信がないからこそ組織に頼るし、その分自分と異質なものとは対立し排斥しようとする。一匹狼だから他と対立するという発想自体、多様な価値観を否定しているものである。

であるからして、リーダーたるものは毅然とした自分の意見を持っている一方で、自分と異なる多様な価値観についても、それが価値観を押し付けて多様性を否定する全体主義的なものでない限り、受け入れ尊重するのは当然である。それは言い換えれば、リーダーたるものは自分と異なる価値観の持ち主からも、新たな発見や学びを行うことができるような心の広さを持っていなくてはいけないということになる。

このようにリーダーの器というのは、全方位でバランスしている必要がある。まさに聖人君主そのものである。リーダーが多様な価値観を受け入れる姿勢を見せることにより、組織のメンバーもまたおのずと多様な価値観を受け入れるようになる。これは上から目線で「押し付ける」ものではなく、メンバーはおのずと感化されるようにその姿勢を同じように真似ることにより広まってゆく。

ここが重要である。まさに官僚組織の「忖度」の逆。権威を利用するのではなく、自然に良いところがイズムとして広まってゆく。ベンチャー企業においては、社員一人一人がファウンダーのヴィジョンを自然に身に付けていることが多い。これなどは、リーダーの器が人をひきつけ、それが組織のアイデンティティーとなることによって生まれる現象である。企業の継続のためには、こうやってヴィジョンが受け継がれることが重要なのだ。

組織で成り上がった人間や、秀才なだけの人間にリーダーシップが取れないのは、ここに理由がある。組織の運営や経営といった舵取りはできるかもしれない。その結果それなりに組織としてのパフォーマンスが上がるかもしれない。しかし、その繋がりはあくまでも「収益が上がる」という功利主義的なものでしかない。人間的なものではない以上、「金の切れ目が縁の切れ目」になってしまうのもムべなるかなである。

その一方でオーナーやファウンダーは、無からそのポジションを築いたワケだから、当然組織や権威にすがって地位を手に入れたわけではない。おまけに秀才エリートのように「ポジションが先」にあってそれを狙ったのではなく、その地位自体も自ら構築したものである。当然、命令して神輿を担がせているのではなく、メンバーが担いでくれたからこそ、神輿の上に乗ることができている。

とかく組織というと、20世紀の産業社会においては能率・効率といった論理的合理性ばかりが強調されてきた。そして組織をベンチマークする指標もそれを示す理論的数値ばかりが重視されてきた。それはそれで20世紀という時代背景を考えると意味がなかったわけではない。しかし今や情報社会化した21世紀である。結果をしめす理論的数値だけでは語れない要素が重要になってきていることを忘れてはならない。

世襲も同じである。欲に目が眩んだ権力闘争の中から地位と名誉を手に入れたがる人間ではなく、生まれた時からリーダーとはどうあるかを叩きこまれてきた人間の方が、よほどリーダーの器を持っている。よく問題を起こす「二代目」もいるが、それはそもそも初代がヴィジョンも戦略も持たずに、上手く波に乗るだけで儲けた「成金」だったので、二代目に伝えるべき「家伝」がなかったからである。

経営や組織運営といったリーダーシップは、AIでは対応できない、21世紀においてこそ人間が必要とされる分野である。そしてその人材に求められているのは、勉強や教育といった後天的な努力だけでは対応できない能力である。社会的に重用されるかどうかはさておき、秀才が必要とされる分野もあるだろう。しかし、リーダーに秀才を登用してはならない。リーダーこそ「生まれと育ち」がカギなのだ。それは21世紀に入ってからの霞が関の体たらくがなにより証明していることである。


(19/11/15)

(c)2019 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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