21世紀の掟 その1





21世紀の人間社会を規定するスキームについては、この数年でかなりはっきりしてきた。その内容については、すでに昨年このコーナーで分析した通りである。2020年になって、そのような変化が世の中の具体的な動きとして現れ始めている。今回と次回の2回は、それらのパラダイムシフトが実際にどう影響し、これからどういう動きになって行くかということについて見てゆきたい。

今回はまず、世の中の意識や行動を決める軸が20世紀産業社会的な的なイデオロギーベースを脱し、甘え・無責任を求めて画一性にすがるか、自立・自己責任で多様性を担保するかという軸に移ることの影響を見て行こう。単純に言えば日本においては画一性を求める人が多数で、多様性を求める人が少数という傾向は変化しないものの、それが単純な数の大小にならないところが一筋縄ではいかない点である。

多様性を排除し画一性を追及した全体主義的組織は、中にいるものには組織への甘えを許す代わりに、外部の異質の存在に対しては極めて攻撃的になる。その組織の根本原理が「多様性の排除」にある以上、異質なものを忌避するメカニズムが内包されてしまう。この異質なものに対する免疫機能にこそ、全体主義的組織の構造的弱さが存在する。この手の組織にほころびがおきるとすれば、この構造的弱さからである。

それは「組織が拡大すると、画一性が弱まってしまう」点である。組織拡大の方をより重視すれば、多少画一性が弱まっても問題はないのだろうが、それではどんどんポピュリズムに近付いてしまい、自分達のイデオローグの独自さや先鋭さといった特色は薄まってしまう。だからこそ、より純粋化することで自分達もアイデンティティーに忠実にあるべきだという、原理主義者が登場する余地が生まれる。

すなわち全体主義的組織はある程度以上大きくなると、単なるポピュリストになってしまうか、より原理主義的な小集団に分裂するか、どちらかにならざるを得ないという宿命をもっているのだ。ポピュリスト化すると、もはやリーダーはコントロールを失う。ヒトラーにとってユダヤ人差別はドイツ国民の感情論に訴えて政権を奪取のための手段であったものが、いざ政権を取ってしまうと国民感情の高まりから、ユダヤ人迫害が政策の目的になってしまったことが如実に示している。

その一方で原理主義的な分裂が起こると、異質なものに対する免疫機能がもともと同じ穴の狢だった者同士の間で、自家中毒のように働くようになる。そしてこういう「似て非なる者」に対する反発は、全く異質なものに対するものよりさらに激しいものとなる。かくして、ポピュリズムに染まらなかった全体主義組織は、分派化して内部対立、いわゆる「内ゲバ」を開始しその抗争自体が目的化することになる。

多様性を排除しした全体主義的組織の代表としては、宗教教団と左翼政治集団が双璧である。そしてそのどちらも、原理主義化して内ゲバに明け暮れるという軌跡を、歴史上何度も示している。原理主義化した宗教はすぐカルト化する。原理主義化した左翼はすぐセクト化する。そして、外部の人間からすればその違いがわからないような重箱の隅をつついて、血で血を洗う抗争を始める。目くそ鼻くそで人殺しをするんだから、大したものである。

宗教戦争といえば十字軍のような異教徒間の抗争を思い浮かべることも多いかもしれないが、これは宗教間の戦争というよりも、カトリックを奉じた神聖ローマ帝国とイスラム教を奉じたオスマントルコ帝国との国家間の領土争いであった。宗派間の直接抗争は、中世末期の宗教改革期にカトリックと新教との戦争が行われたし、今の中東情勢をみても、その基礎にはイスラム教のなかでのシーア派とスンニ派の対立が基礎にあるなど、事例はいくらでもある。

もともと「内ゲバ」が新左翼用語であったことからもわかるように、エンゲルスが共産主義を主張して以来、左翼の歴史とは内ゲバの歴史であったといっても過言ではない。ソビエト共産党でのレーニンとトロツキーの対立に始まり、冷戦期にはソ連と中国の対立もあったし、その中国の中でも派閥間の激しい権力闘争は日常茶飯事であった。マスターベーションに過ぎなかった日本の新左翼も、何一つ世の中を動かすことなく、内ゲバだけの集団となってしまった。労働組合もそうだ。

画一性の追求には、必ずこういう自家中毒的な要素が付いて回る。それは人間が完全には画一化できないからだ。ということは、画一性を求める全体主義的組織は、ある程度以上大きな組織を長時間維持することができないことを意味する。ここに元々は少数派である「価値観多様主義」派がリーディングポジションを奪えるチャンスが生まれる。元来多様性を許すのだから、分裂した画一主義者の中のある部分と組めれば多数になる機会が生まれる。

21世紀の組織論というのは、多分この力学に基づく合従連衡の繰り返しになるのだろう。そういう意味では、寄らば大樹の陰を求める人たちが、本当に縋れる権威をもとめて右往左往することで画一主義者の迷走を引き起こす一方、多様主義者は焦ることなく状況をクールに見つめていればいいのである。そもそも論理的には画一主義者は原理主義化してロングテールになるしかない。その時は意外と近いのではないだろうか。


(20/01/10)

(c)2020 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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