21世紀の歩き方





この年初からは2回に渡り、21世紀の人間社会を規定するスキームに分析した。まず、世の中の人々の意識や行動の軸が「甘え・無責任を求めて画一性にすがるか、自立・自己責任で多様性を担保するか」という構造に20世紀的なイデオロギー的二元論から変化する軸に移ることを明らかにした。次に社会の情報化の進展とともに産業社会的な人間観が変化し、「秀才重視の知識主義」が終焉することをみてきた。

これらの変化はすでに1980年代頃から起こり始めていたし、感度の高い先端的な人々は、その当時からこのような変化を予見していたこともみた。そして、AI等の高度な情報処理が実用化されるにいたり、一般の人々にとっても変化がすでに起こっていることが実感されるとともに、このような変化に気付いた人と気付かない人との間で社会現象に対する認識に大きな差が出てきていることも示した。

今回は、このような時代認識を前提に、これからの時代を乗り切ってゆくためにはどういうコンピタンスが必要となるのかを見ていこう。とはいうものの、前回見たように21世紀の人間社会は努力や勉強だけで乗り切れるものではない。もちろん努力や勉強が全く無意味ということではないが、それらはトッピングや薬味のような存在になるのだ。決して主食にはならない。薬味の刻みネギやすり生姜だけをいくら食べても、腹いっぱいにはならないし、気分が悪くなるのがオチだろう。

20世紀型の産業社会においてはそれなりにいい思いが「秀才型の組織人」が、全く無用な存在としてそのポジションを失う一方、21世紀型の世の中になっても全く変わらずに生きてゆける人もいる。その両者を分けるカギとなるのが「自分というもの」をしっかりと持っているかどうかである。能力や学力といった定量的な指標ではない。他人や周囲がどうあろうと、常にブレない自分を自分自身の中に持っていられるか。これが大事なのだ。

美術や音楽の世界で生きていると、人間には二つのタイプがいることが良くわかる。一つは模写や施主からの製作依頼など外側からのディレクションがある作品の「製作」作業は極めて得意とするが、「あなたの好きなようにやってくれ」というと何かの二番煎じか狙いどころのわからない煮え切らない作品ばかりになってしまうタイプである。こういう人でも腕が立つ人はいるし、そういう人は優秀な職人として評価されている。

もう一つは、自分の中に創りたいイメージと創作意欲が充満していて、とにかく表現しないではいられないタイプである。こういう人たちは、腕はイマイチで職人的なテクニックは持ち合わせていなくても、荒削りでも非常にインパクトの強い作品を作る。もちろん、表現意欲もテクニックも並外れた人も多いので、自分自身がアーティスティックな活動をする人でないとわかりにくいのだが、明らかに自分自身の中に表現のエネルギー源を持っている人と持っていない人がいる。

実はこの人間性の違いは、人間生活のあらゆる局面で出てくる。経営者においても、大企業のサラリーマン経営者とベンチャーの起業家ファウンダーとの違いはここにある。秀才的な努力や勉強の差ではない。人間の器、人としての構造が違うのである。学校の先生でも「デモシカ先生」と「教育者」の違いはここに求められるし、親としても「子供に小言を言うだけ」か「自分の背中で子供に生き方を示せる」かという違いが生まれてくる。

そして、自分の中に「沸き起こるエネルギー」がなく、他人から言われるままにテクニックや知識だけでこなしているタイプの人間が、AIによって置き換えられるのである。ある職業や職種が、即、全てAIに置き換えられるということはない。逆にどんな職業であっても、「沸き起こるエネルギー」を駆使して付加価値を生み出している人材はいる。今までの日本では、この違いに余り着目されていなかったというだけなのだ。

逆に欧米などでは、組織人としてより個人としての能力を評価した上でその人をフューチャーすることが多く、このような人間の器についての客観評価も比較的進んでいる。そしてこの「沸き起こるエネルギー」の多寡というのは持って生まれたものの影響が大きく、後天的にフォローし切れない部分が大きい要素なのだ。つまり、もともと「沸き起こるモノ」を持っている人はそれを増やすことが可能だが、それがない人は何をやっても生み出すことはできないのだ。

21世紀を生きてゆく上で最も大事なのは、この点である。「沸き起こるエネルギー」を持っている人は、それは神様なり阿弥陀様なりから運命として与えられたものなので、それを授かったものとして、その力を人類のために生かす使命を受けて生まれたのだ。その一方で持っていない人は無駄な努力をしてもはじまらない。自分の運命を受け入れ、高望みをせずそれに甘んじで生きることが大事なのだ。

とここまで書けば、わかる人にはわかる。これは近代宗教に共通する信心の教えである「予定説」そのものではないか。そう、21世紀だからといって特別なことが必要なわけではない。20世紀の産業社会の刹那さのなかで失われてしまった宗教的信仰こそ、21世紀の情報社会を渡り歩くためのカギになるのである。信じる宗教は何でもいい。大事なのは現世の運命を受け入れることである。AI時代だからこそ、宗教の価値が再認識される。これが21世紀の歩き方なのだ。


(20/01/24)

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