意見と主張





思想信条の自由がある以上、他人の行動や主張に対し意見を差し挟むのは自由である。しかし意見というのはあくまでも「こういう考えもあるんじゃないか」という可能性の提言である。それが取り入れられることもあるし、ただ承っておくだけのこともある。それをどう扱うかは、意見を聞いた当事者の自由である。ここが意見の意見たるポイントだ。取り扱い方の自由が担保されているからこそ、言う方の自由も保証されている。

もちろん、意見を言う方と意見を聞く方の関係性に於て、その意見が取り入れられやすくなることもある。というより、意見の内容以上に相手との関係性に於て実現を図るのが意見といった方がいいかもしれない。見ず知らずの人が意見してきても、シカトされるのがオチである。SNSなどではそういう輩もよく見られるが、「軽度のクレーマー」と思われてあしらわれることが多い。

いろいろな人からこういう「意見」を寄せられる職業の一つが議員であろう。議員、特に地方議員にとっては、陳情対応はメインの仕事ともいえるので、なにか言われれば市役所等の担当者につないで問題解決を図ったりする。陳情の内容自体は日常生活の問題レベルで、政策そのものとは直接関係しないベタなものが多い。それでも票につながるので、自身の地位を保全するためには重要な業務である。

陳情の単位は地盤というか地域に関係したものが多いので、結果的には相互に相対立するものも寄せられることもある。交通量が多いので道幅を広げて信号を付けてくれという意見と、逆に一方通行にして交通量を減らしてくれという意見と、同じ住民の中でもいろいろな意見がある。そもそもこういうものは政治的な主義主張とは関係ないし、住民重視という意味ではどちらも立派なご意見である。当然両方に耳を傾けるであろう。

しかし、意見というのはそういうものである。聞く方はそのどちらかに味方しなくてはいけないというわけではないし、あくまでも中立な立場でどちらの意見も市役所の担当者につなげばいい。もっというと、意見というのは主義主張とは違うので、言う方もその考えかたに凝り固まっている必要はない。論理的に「こういう考えかたもありうるのでは」という提起として意見を言うことも、場合によっては意味がある。

そういう意味では意見自体が矛盾していても、それはある種の思考実験なのだから咎めるべき対象ではないのだ。意見というのはそのくらいフレキシブルなものである。その分、意見とは別に、自分はどうしたいのか、どうすべきだと思っているのかという主義主張はしっかり持っている必要がある。ところが今の野党の方々は、意見こそいろいろ出すものの主義主張が全く見えてこない。

よくブーメランといわれるが、それが意見であるならば、矛盾があろうと、自分への批判になっていようと、主張することは自由である。だが政治家であるならば、そもそも自分が世の中をどう捉え、どうしようと思っているのかキチンと主張がなくてはいけない。それがまたく見えてこないのが問題なのだ。55年体制の野党は政権狙いではなくバラ撒き期待の無責任集団だったので、政策はなく陳情レベルでも問題はなかった。

問題なのは、そういう無責任体質を抱えたまま、野党出身者も民主党に合流して政権についてしまったところだろう。民主党でも自民党離党組は、まだ政権政党には主義主張に基づく政策が必要だということを身をもって知っていたが、野党や市民運動出身者はそういうベースがなく、陳情レベルの意見でゴネておいしい思いを使用という視点しかない。そのまま政権についてしまったために、「政治というのはこれでいい」と思い込んでしまったのだ。

ある意味政治家としては「無免許運転」なワケだから、仕方がないといえば仕方がない。それでもキチンと議会制民主主義の常道にのっとって、無碍にせず扱っているのだから今の与党は紳士的といえる。まともな主義主張はないのだから、せめてそれだけ大事にしてもらっているということぐらいは野党の政治家は理解すべきだろう。何にでも反対するよりも、「意見をいう存在」として自分を規定した方が、まだ票は伸びるのではないだろうか。


(20/01/31)

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