ユニバーサルとは




身体的などのハンディーキャップが、チャンスと出会う可能性を制限する差別になってはならない。まさにユニバーサルデザインとは、このハンディーキャップを可能な限り解消することで、機会の平等を実現するためのものである。奇しくも東京オリンピック・パラリンピックの延期問題が喧しいが、ピクトグラムによるサインシステムも前回の第18回東京オリンピックの時に、日本語が読めない外国人にも不便がないように、世界で初めて考案・導入されたものだ。

目が見えないために認識できない、体がうまく動かないために使えないといったハンディーキャップは、あたかも日本語だけで書かれた案内看板のように、多くの場合入り口のところで健常者と同じように対応できなため、大きな障壁となってしまう。入り口のハンディキャップというのは、その先のフェアな競争以前に参加を拒んでしまうものとなっている。入り口のハンディキャップが絶対にあってはいけないものなのはそのためだ。

しかしそれは門前払いを排し、ユニバーサルアクセスを実現することで、フェアな競争をもたらすための方策である。障害のある人は可哀想だから、特別大事に扱ってあげるという慈善的行為ではない。ましてや結果の平等を保障するものではない。長らく大家族的共同体メンタリティーが行動基準となっている日本社会では、多くの場合平等というと「結果の平等」のこととして捉えられることが多い。これは何もユニバーサルの問題に限らない。

特に左翼・「リベラル」といった「革新」系の人たちの間ではこの傾向が強く、結果の平等としての「みんなで不幸に耐える」ような「おしん状態」を理想社会のあり方としがちである。健常者間でさえ、競争して結果としての差がつくことを極度に忌み嫌っているのだから、いわんや彼らにとっての「障碍者」観をやである。彼らは弱者に対しては「俺たちが気を使って恵んでやっているんだから、大人しくついてこい」と言わんばかりの態度をとる。

障害があっても門を閉ざさず、その障害をハンディーとせず、フェアな実力勝負に参加する道を拓くものだからこそ意味がある。障害の有無と才能の有無は全く別物である。人間として卓越した才能があるにもかかわらず、「障碍者枠」にはめられ、あるいはそれで優遇という名の「別枠扱」されてしまうことこそおかしい。それはあたかも、障害のある人が本来持っているすばらしい才能を発揮することを拒否しているかのようだ。

障害がある人でも、才能のある人は、特別扱いではなくフェアに才能を評価してほしいはずだ。スティービー・ワンダーは盲目だが、スティービーの唄を聞いて感動する人の気持ちの中ではそんな事実はすっ飛んでしまっている。圧倒的な歌唱力で途方もない表現力を発揮しているからこそ、みんな彼の唄を聞きたがるのだ。そこでは障害の有無は関係ない(もっとも彼にとっては、ピアノの黒鍵の方が奏きやすいので、キーがAbとかEbmとかいう健常者には奏きにくい曲が多かったりするのだが)。

結果についての保証は、セーフネット的な生命・生活の危機の沼に落ちることを防ぐものこそ必要だ。しかし、結果に差をつけず横並びを求めるのは、甘え・無責任の象徴でしかない。そこには自分を磨き努力するという発想は皆無であり、ひたすらバラ撒きに期待する姿勢しか見て取れない。ましてや自分は不幸な弱者なのだから優遇してくれという主張など言語道断である、そんなことをヌケヌケと主張している時点でもはや弱者ではない。

ユニバーサルとは誰かを優遇するものではない。入り口の敷居を下げて機会の平等を実現するためのものである。入り口の敷居を下げることは結果として既得権を排し、守旧派の利権を無意味なものとすることにも繋がる。機会の平等が実現するということは、とりもなおさず本番の競争がフェアで公正なものとなることを意味する。それはまた、競争の勝負どころが、勉強や努力の多寡ではどうしようもない天才同士のセメントマッチになることを意味している。

それを勝ち残った才能こそ、AI時代に人間に求められる能力である。そういう意味では、ユニバーサルな視点とは、情報社会における人間の役割を見据える上でも非常に重要な概念といえる。これは20世紀までの産業社会の時代とは違うパラダイムである。産業社会的な発想にどっぷり浸った人には理解できないかもしれない。しかしいいではないか。そういう人達が茹でガエルになる間に、わかっている人がチャンスを掴めるのだから。



(20/04/03)

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