「発見力」の時代




近代以降の日本では、列強の植民地にならないためには「欧米先進国に追いつき追い越せ」という明快な目標があり、開国以来1970年代までの百年間、日本にとっては欧米にキャッチアップすることが最も重要な課題となった。これはベンチマークすべき相手が存在していることを意味しており、欧米のやり方をひたすら学ぶことを最優先した社会システムが構築された。

すでに何度も論じているが、「学習すること」が得意な秀才がエリートとして重用されたのも、この欧米の最先端を効果的に学んで取り入れることがなにより必要とされたからだ。しかしいかに多くのことを学習したとしても、それはすでにどこかで実現していることを再現することにしかならない。すでに結果がわかっているから「学習」できるのである。学習の限界はここにある。

AIのディープラーニングも、学習できる情報量が人間にはできないくらい桁外れに膨大だというだけであり、すでにどこかで試され結果の出ていることの積み上げから出てくるものしかアウトプットできない。AIの可能性も限界も、ここがわかっていればすぐにわかることである。コンピュータは最初にプログラミングされた内容以上に情報のエントロピーを下げることはできないのだ。

そして1980年代に入り、日本が世界のトップクラスの仲間入りをすると、今度はベンチマークすべき相手がいなくなってしまった。テイクオフ期の国ならば「学んでマネ」することで通用したのが、トップクラスになると「クリエイティブに創り出す」ことが求められる。すでにあるモノややり方の改良・改善ではなく、新しい物ややり方をゼロから生み出せなくてはいけなくなった。

「学習中心」「秀才重用」のシステムからは、「クリエイティブに創り出す」ことができる人材は生まれない。それは努力や勉強でどうにかなるものではなく、生まれつきの才能の問題だからだ。しかしよく見て行くと、ある程度以上の学習パフォーマンスを示している人間の中にも、二種類の人材がいることがわかる。それは「覚える」人と「発見する」人である。大多数の秀才は「覚える人」である。しかしその中に混じった天才は「発見する人」なのだ。

典型的なのは数学の公式だろう。「覚える人」である秀才の多くは、公式をひたすら暗記する。そして、問題に必要となる公式を思い出し、そこに数値を当てはめて答えを出す。その一方で、「発見する人」は、自分で公理から公式を導き出して、その導くプロセスを覚えている。いわば数学の歴史を自分の中で自前で再現してしまうのだ。人間よくできたもので、逆にこのタイプの人には丸暗記が苦手なケースが多い。

実は教育とは覚えることでも、教えられることでもない。何かを会得するには、必ずしも教わる必要はないし、学ぶ必要もない。それを自分で発見すればいいのだ。本当にできる人間は、自分で発見できる。できる人間は、自分で発見しない限りそれを自分のものとできない。そのかわり、単に当てはめて答えを出すだけではなく、それを応用して未知のケースに対応できるのだ。

情報化が進み、AIの時代になったのだからこそ、もう覚えることも学習することも必要がない。努力は機械に任せておけばいい。どんなに勉強しても努力しても、天才でない限り機械に勝てるわけがない。そう、天才と凡才を分かつポイントは「発見力」にあるのだ。今後も教育に役割があるとするのなら、この「発見力」の違いを見つけだし、発見力をもつ人材を特別に育てることにある。

実はすでにこの違いは明確になっている。SNSを見てみれば、自分が創り出した情報を発信している人はごく一部であり、多くの人はすでに世にあるものの受け売りで発信した気になっていることが良くわかる。他人の発信したコメントをそのままリツイートしたりシェアしたりする人。店の料理を写真をそのままアップロードする人。9割方はそういう人ばかりではないか。

それでいいのである。多くの凡才は頑張る必要もないし、努力する必要もない。別にシャカリキにならなくても、それなりに楽しく生きてゆける。それが情報社会のあるべき姿なのだろう。凡才は凡才なりの充実した人生がおくれる。これこそ19世紀に夢見られた、誰もが幸せに生きてゆけるユートピアではないか。コンピュータとネットワークの発達が、無意味な努力を人間に求めない世界を作ったのだ。



(20/04/17)

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