陰謀論の好きな人




今回の新型コロナ騒動でも、SNSなどを見ると「陰謀論」が花盛りである。今回に限らず、未曽有の事態になると「これは誰かが仕組んだものだ」という陰謀論がどこからともなく現れ、それに一定の支持者が集まる。どちらかというと左翼・「リベラル」系の既存権力へのアンチテーゼと結びついた人達に多く見られるが、同じメンタリティーを持つ人はネット右翼の中にもおり、そのスタンスとは関係なく存在する志向であるといえるだろう。

自分の意見を持たず声も小さいため、かつては社会的に発言するチャンスもなかった「言論弱者」も、SNSではいっちょ前に一人分の発言ができる。陰謀論に乗っかっている人達の素性を調べてみると、どうやらこういう「言論弱者」と相性がいいことがわかる。負け犬の遠吠えではないが、社会的に発言できない人ほどSNSで書き込みまくる(とはいえ自分の意見を書けないので、シェアやリツイートが多い)ようだ。

そういう事情があるから、数々のUGMでは陰謀論の渦である。おかげで、タイムラインが荒れてしまう。そもそもSNSではミュートやブロックはその理念と矛盾するものなのでできるだけ使用を避けたいのだが、これだけ無意味なノイズが増えると(大体、同じような元の「陰謀論」の書き込みをシェア・リツイートしている傾向が強い)、見る意味のないものが溢れて本当に読みたいものを見逃してしまうため、ミュートやブロックを渋々おさなくてはならないことも増えている。

そもそも荒唐無稽な陰謀論を信じるとはどういうことなのだろうか。真っ当な判断力とほどほどの世間常識を持っている人ならば、聞いただけで信じるに足らないとわかるような「暴論」でもありがたく信じてしまう。それはとりもなおさず、判断力も常識も持っていないということを示している。具体的には、自分の中に物事を判断する基準がなく、誰か外側の「偉そう」な人が言った意見を参照して、それを自分の拠り所とするからだ。

自分の意見を持っていないから自分では価値判断ができず、自分の外側で社会的にエスタブリッシュされていると思われる「権威」にすがりたがることになる。言い方を変えれば自分の足で一人立ちでないから、いつでも自分が寄りかかって大樹を欲しがっている。「陰謀論」好きな人達のプロフィールはこういうものだ。その分、世の中の誰もがそういう発想で、自分の外側にあるものを頼って生きていると思っている。

自分の実力で道を拓き「自立・自己責任」で世の中を渡ってゆく人がいることなど、彼等には思いもよらない。だからこそ、自分よりうまくやっている人は、もっと強力な権威を見つけてそれに頼っているのだろうと思うことになる。その結果、そいつらはズルい、いい思いをしやがって、俺達にも分け前を寄こせ、とネタむことになる。この構造は、55年体制下の革新政党や労働組合の「モノ欲しイズム」と瓜二つであり、左翼系と陰謀論の相性の良さはこのあたりにルーツがある。

百歩譲って、確かに自分自身で自分の中にアイデンティティーを持てず、自分の外側から「認めてもらう」ことでしか自分を確認できない人はいるし、そういう人が日本人には多いことも確かだ。とはいえ、ちょっと考えれば、そういう「支えてもらえる柱」が世の中にあると思うのなら、「柱になっている人」は自分とは発想が違い自立して自分の足で立っているから柱足りうるんだということに気が付くだろう。

世の中のみんながみんな自分の足で立たずに、外側にある柱にすがっているのなら、そもそもその社会では誰も起ち上がれない。土台も築かず、筋交いも入れずに、ただ角材を立てただけの構造物では、地震はおろか風が吹いただけでも倒壊してしまうのと同じだ。しかし現代社会は民主主義の多数決をベースとしているため、そういう「自分の足で立てない」人達が社会のベースとして「甘え・無責任」を選んでしまえば成立してしまう。

では、そういう人達ばかりで構成される社会とはどういうものだろうか。実は桁外れの被害を残したものの、20世紀に貴重な社会実験が行われていた。大衆社会の民主主義が20世紀の規範だったので、どんな人でも、いかに「甘え・無責任」な人でも一票は一票となるのが今の先進国の議会制民主主義の基本になっている。そしてそのような、ファシズムを生んだものこそ、大衆社会における民主主義であることを忘れてはいけない。

第二次世界大戦の枢軸国はファシズム体制といわれているが、それは権力者が暴力装置で国民を脅して強要したものではない。大衆のポピュリズムが、それまで政権を持っていた有責任階級のやり方を嫌い、自分達の熱狂する勢力に国家権力を与えたからである。一人一票の平等な民主主義が、未熟な大衆の求めるものを実現させてしまったということができる。

ナチスも、ファシスト党も、大政翼賛会も、その政策的を分析すると、主張していたのはかなり社会主義的な「赤い」政策である。日本でも「赤い華族」とよばれた近衛文麿首相などは象徴的である。大衆迎合的な政策をとって政権を取ろうとすれば、大衆受けのいいそういう政策になるのは当然である。自由主義、市場原理とは相容れない、管理主義、計画経済を基本とした、バラ撒きの大きな政府である。

当時ドイツにおいては、もっとも「民主的」と言われたワイマール体制があったからこそ、庶民の不満が取り上げられて、ナチスが政権を取った。ユダヤ人への弾圧も、ドイツの庶民・大衆がユダヤ人を圧倒的に目の敵にしていたのを利用して取り入れた政策である。同じように、日本でも1925年の普通選挙法が施行されて、現状を打破したくて戦争を求めた無産者の意見が反映されて、同じように無産者出身者がエリートになっていた軍部と一体化して太平洋戦争への道を進んでいった。

責任を取る気がない人に、権力への道を与えてはいけない。一人一票ではまずいのだ。必ず道を誤ることになる。これが20世紀に何千万人という犠牲を払って行われた社会実験の成果である。「寄らば大樹の陰」の人は、何に関しても「甘え・無責任」であり、自分が肚をくくる気持ちは毛頭ない一方、モラえるものは何でもモラおうと、バラ撒き、大きな政府を求める。このような人達が権力を支えたら、必ず悲惨な結果をもたらす。

そもそも求めることは自由だが、無い袖は振れない。日本は高度成長期に、有り余ったお金の使い道がわからずバラ撒いてしまった。その時代は、それでよかったのかも知れないが、今や時代が違う。ここで思い出すのが、今や情報社会になりAIの時代になったということだ。天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らないが、コンピュータシステムは、AIの上に人を作り、AIの下に人を作る。

自分を持っているかどうか、これがコンピュータを使うか、コンピュータに使われるかを分けるのだ。「寄らば大樹の陰」もそれはそれで生き方であり、選択だ。どうするかは、個人の自由である。しかし、寄るべき大樹は、匿名・不特定多数の「社会」ではなく、AIになってしまうということだけはわかっていて欲しい。自分で人間として生きるのか、AIに使われて生きるのか。そのどちらの生き方を選ぶかは、まさに自己責任の自由なのだ。



(20/05/15)

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