ホモソーシャルとホモフォビア




ホモソーシャルな人は、実はホモセクシュアルになりたがっている。というか深層心理の中にホモセクシャルな世界へのあこがれがあるからこそ、男同士の世界にあこがれてしまうのだが、その一方でホモソーシャルな人は社会規範に縛られてしまうので、ホモセクシュアルにはなれないという矛盾がある。そのせいでホモソーシャルな人達は、このような熱いマグマが地下に充満しているような状態にあるのである。

古くは薩摩藩の「薩摩趣味」でおなじみの江戸時代の武士の「衆道」などに始まるが、三島由紀夫氏の「盾の会」を持ち出すまでもなく、軍隊やヤクザ、あるいは一部の男子校の体育会といった「男の世界」とホモセクシャルとは極めて親和性が高い。これは「異性の目」がなくなってしまったところでは、「タガ」が外れてしまい、深層心理の中に抑えていたものが溢れてきて表面化してしまったものととらえることができる。

しかし、ホモソーシャルな人は社会秩序に従順でありたいと思っているし、それゆえ社会規範に縛られてしまうので、一般的には一線を越えてホモセクシュアルにはなれない。この内なる鬱屈を晴らすため、その葛藤を外側に対して暴力的に爆発させることになる。すなわち「人が我慢しているのに、楽々一線を越えていい思いをしている連中は許さん」という論理である。このため、憧れが転じてホモフォビアになりがちなのだ。

実は心理学的に分析すると、ホモフォビアというのはそもそもホモセクシュアルに関心がある人でないとなり得ない。全く同性愛に関心がない人であれば、ホモセクシュアルな人達がいたとしても自分ごととしては捉えないし、「そっちで勝手にやってくれ」と無視することになる。当然、世の中でのセクシャルマイノリティーに対する共感性は低く、ある意味差別的といえないこともないが、わざわざ攻撃したり傷つけたりすることはない。

そもそもそういう人達に、喧嘩を売ったりお節介をやいたりといったように、自分の時間とエネルギーをわざわざ使おうというモチベーションがないからだ。わざわざ関わろうとすること自体が、実は極めて関心が高く、それは深層心理の中でのシンパシーの裏返しであるという現象は、世の中のいろいろなところで見ることができる。というか、「わざわざ相手にガンつける」ような行動は、ほとんどこのような心理から引き起こされている。

最近新コロナ騒動とともに話題になった「自粛警察」なる人々も、同様のモチベーションから生まれてくるものだ。実は自粛したくないのだが、自分にその勇気がなく仕方なく我慢しているので、自分のやりたいように行動している人が悔しくて仕方がない。かといって、自分の本心を知られるのはイヤだ。そうなると、自由に行動している人が憎くてしょうがなくなる。だから叩くことになる。

ある意味、この手の「恨み」は過激派の内ゲバと同じで、同根だからこそ近親憎悪が爆発するということもできる。ホモソーシャルとホモセクシュアル、自粛警察と自粛破り、これらは皆近親憎悪のなせるワザだ。やりたくでもできない(それは精神的勇気ということもあるし、金銭的な余裕ということもある)自分がふがいないから、その悔しさを「できている」人にぶつけるのだ。

そういう意味では、いじめ・差別とも全く同じである。ただしこっちは動機付けが「憧れと我慢」ではなく「精神的最下位争い」なのだが、傍から見れば「目糞鼻糞」で大同小異な連中同士が、相手を叩くことで自分の方が上だとマウントを取る行為という意味では瓜二つである。そもそも「人を叩く」ということ自体が、自分の中のコンプレックスを他人への暴力で紛らわすことでしか起こりえない。

結局、この手の他人への加害行為は、一人では居場所が造れず、集団の一部と成らなくては生きてゆけない人達が、自分の欲望と集団への帰属性との二者択一を迫られたときに、自分の中での矛盾を他人を叩くことで解消しようという行為である。「金持ち喧嘩せず」とはよく言ったもので、自分を持っている人は、他人を貶めたり暴力をふるったりすることはない。なんと浅ましいかな。結局は自分の心の貧しさを露呈しているだけなのだ。



(20/06/05)

(c)2020 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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