左翼の本性




このところ、左翼・リベラルの本性が顕になる自体が続いている。その中でも、もっとも「衣の下の鎧」が見え透いてしまったのは、意見や価値観の多様性・言論の自由といった主張を口先でこそ行うものの、実際にやっていることは、自分達の意見だけが正しく、それと違う意見やその持ち主の存在自体を許さないという点である。同じことでも、自分達だけは許して相手には許さない。そもそもその寄って立つ基盤自体が、ダブルスタンダードで矛盾しているのである。

反権力という主張も同様の構造的問題を含んでいる。本当に同じ土俵で意見を戦わせて相手を打ち破ろうと思うなら、今の権力の問題点を指摘した上で、自分達ならそれをどう改善できるかという対案を出す必要がある。ところが、彼等は反対のための反対しかしない。こうなるのは、自分の権力欲は人一倍だし、思想信条の自由が存在する民主主義の状況下では自分達の望むような権力を手に入れることはできないから、力づくで権力を奪取しようという志向の表れである。

自分達が権力を掌握して、国家全体を自分の思い通りに動かしたい。結局のところ左翼やりたいことはこれに尽きる。「権力欲」に取り付かれていることが、政治的モチベーションの全てでなのだ。だからこそ、民主主義下での権力というものが、基本的に民意の集大成であるということにも気付かないし、権力は全てを思いのままに動かしているという思い込みを疑わない。民主主義政体下であっても独裁的権力があると思ってしまうから「アベガー」になるのだ。

とにかく権力欲の塊で、自分が独裁者になりたい。そういう人ほど左翼に惹かれる。19世紀半ばに社会主義思想が確立し左翼が生まれた時から、彼等は暴力的に権力を奪取しようとし続けてきた。その歴史を振り返ってみただけでも、「権力欲」に関しては「お里が知れる」というものだ。しかし、実はこれは社会主義思想・共産主義思想が構造的に持っている問題点ではない。結果的にこうなってしまった理由は、他のところにある。

歴史的事実がそれを示してくれる。そもそも冷戦時代に「鉄のカーテン」と呼ばれた共産圏は、スラブ諸国やアジア諸国など、大衆社会が成立していなかったため元々民主主義的伝統が弱く、中央集権・全体主義的傾向が強い国ばかりであった。西欧先進諸国にも社会主義政党はあり、実際政権を獲得した例も20世紀後半には多く見られたが、あくまでも社会民主主義を貫き、中央集権・全体主義的な国家体制は目指さなかった。

コミンテルンなど当時の共産主義者は、資本主義の発展に取り残された国だからこそ、限られたリソースを集中的に配分する必要があるなどと主張し、これらの国々でのみ中央集権的な共産主義体制が成立した理由を経済に求めていた。しかし、これは方便でしかない。鉄のカーテンが崩壊して30年以上を経た今となっては、この考え方では原因と結果が逆転し本末転倒になっていることがはっきりとわかる。

元々中央集権・全体主義と親和性の高い国で、独裁的な政権を樹立しようとしていた人達が、自分達の目指す権力を正当化する理屈・イデオローグとして、中央集権・全体主義に親和性が高い「共産主義」を援用し、それに乗っかったに過ぎない。「共産主義」自体、元来哲学者・ヴィジョナリストとしてのマルクスが描いていた「理想郷」とは似ても似つかないものである。マルクスの高邁な思想はエンゲルスが換骨奪胎し、政治的イデオロギーに改竄されてしまった。

このような「自己中心的権力欲」こそ左翼の特徴である。民主主義をベースとした政治機構を持っている国においても、ポピュリズムにより中央集権・全体主義的な政治権力が生まれることがある。それは強い権力が現れて欲しいと思っている「貧しい民衆」から、強力な支持を受けることで成立する。この場合の方が、権力欲と政策スタンスという本音と建前の構造はより明確だ。

このような形で中央集権・全体主義的な政権が出来上がったのがファシズムである。このようにファシスト政党の特徴は、社会主義的なバラ撒き福祉大サービスを行う一方で(ナチスでは「フォルクスワーゲン」の国民車政策など)、大衆が常日頃一般的に抱いている不満や差別感を増幅して焚きつける(ナチスではユダヤ人差別など)ところにあり、あくまでも民主主義体制を前提にした「ボトムアップ型」の熱烈な大衆からの支持をその成立基盤としている。

そういう意味では、中央集権・全体主義的という求める権力のあり方だけでなく、大衆へのバラ撒きと二元論的な分断憎悪が政策の二大柱という面でも、左翼・共産主義とファシズムとは双子の兄弟といっても良いくらいよく似ている。つまり左翼はエリート然としたトップダウンの権力志向、ファシズムは大衆からのボトムアップによる権力志向という、権力を正当化する軸の向きが違うだけで、その成立メカニズムは同一なのだ。

もっというと、それは産業革命以来の生産力は飛躍的に拡大したものの、情報処理力は旧態依然とした人海戦術に頼らざるを得ないという、20世紀初頭の不均衡な社会リソースの発達がもたらした矛盾の産物なのである。それを大衆のポピュリズムにより誤魔化す手法が、左翼なりファシズムなのだ。そういう意味では、社会の情報化が進んだ21世紀においてはこのどちらも文字通り「全世紀の遺物」である。

とはいっても、社会の情報化の恩恵を受けられない「情弱」な人も、能力的に障害がある人と、ラガード的な頑固者を中心に一定数残っている。そういう人が、今、最後に残った左翼・リベラルの支持者となっている。そういう意味では筒井康隆氏のギャグ短編「90年安保の全学連」ではないが、もはや余り真剣に相手をせず、貴重な絶滅危惧種として天然記念物のように眺めるのがお似合いなのかもしれない。



(20/06/12)

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