人間の条件





自分で道を発見できずに、人から教えてもらおうと思っている人には、もはや未来はない。AIの時代になって一番変化した人間の掟はここである。教えてもらったことを、その通り一番ウマく再現できるのはAIである。人間は間違えるが、コンピュータは間違えない。一旦記録されれば、何度でも完璧に再現できる。おまけにデジタルデータは記録媒体の限界はさておき、データとしては理論的に何度コピーしても劣化しないところに特徴がある。

もともとデータの保存性と複製性に優れていたデジタルデータだが、コンピュータの学習機能が高度化したことにより、データを体系的に整理して蓄積することにおいてもコンピュータ自らが自動的にこなせるようになった。学ぶことにおいてはコンピュータの圧倒的な優位性が確立したのだ。これがAIの強みある。教えてもらったことをその通りやるのであれば、AIのコンピュータの方が確実で間違いがなく、よほど優れているのは言うまでもない。

では、この段階でどこに人間の優位性があるのだろうか。それは教えてもらうのではなく、自分で発見することができること。すなわち発見力こそが人間の条件なのだ。コンピュータでも学習法をプログラミングしてもらえば、そこから先は自分で経験値としてのデータを蓄積することができる。いわゆる「ディープラーニング」である。しかし、人間は(発達障害の一種である学習障害の人を除くと)学習法を教えられなくとも自分で見聞きしたものから自動的に発見し学習する能力を持っている。ここがスゴいのだ。

学習能力はどんな生物にも備わっているし、特に哺乳類や鳥類など比較的脳の発達した生物では、動物園や水族館でやっているようにかなり高度な「芸」も披露できる。しかし、これは人間に教えられてやれることである。自ら発見し学習できるのは、やはりどう効率よく餌を手に入れることができるかとか、危険を事前に察知して躱すかとか、生きてゆくために必要とされる領域にとどまっている。そうでないものも含めて好奇心で発見できるところが人間のスゴさであり進化した理由でもある。

もちろん、この「発見」する能力は人によりかなり差がある。発見することが得意な人もいるし、不得意な人もいる。これは、誰も頑張れば100m走で10秒を切れるわけではないのと同じで、能力差である。しかし学習障害を持つ人は別として、全く発見する能力がないという人はいない。不得意であっても、全く発見できないわけではない。自分ができる範囲の発見をすればいいのだ。自分の身の丈に合わせて「発見する努力」を怠らないことが大切だ。

しかし自ら発見するというのは、多大なるエネルギーを必要とするし、それを続けてゆくには根気がなくてはならない。何事においても自分で発見するより誰かに教えてもらいそのままマネする方がずっと楽なのは間違いない。だからこそ人間は教えてもらいたがり、マネをしたがるのだ。産業社会の段階においては、生産力の発達と情報処理力の発達に差があったからこそ、マネがまかり通っていた。しかし21世紀になり、それではもはや生きてゆけなくなった。

すでにAIはパクりにおいては、人間を越えている。AIを使って画像や映像、音声を作り出す技法はかなり進み、実用の域に達しつつある。その限りにおいては、もはやAIは「職人」の域を越えている。かつてNC制御の工作機械が、一般的な職人の精度を軽く越えてしまったのと同じように。しかし、それがディープラーニングによる学習をベースとしている以上、アウトプットはいかにクラフトとしての作り込みがスゴくても「創造物」ではなく最高レベルのパクりである。

とはいえ、世の中には真に創造的な作品を作れるクリエイティブな人は少なく、画家にしても音楽家にしても作家にしても、その多くはほとんどの場合勉強と努力で得た知識をベースとした職人であることが多い。特に日本においては芸術教育が西欧に追いつき追い越せの物マネ教育だったこともあり、この傾向が強い。このような中で物心つき教育を受けてきた人間が、成人に達してから「職人」であることを捨てろを言われても、それは無理というものだ。

しかし、発見ならある意味人間としての本能にビルトインされているものだけに、真の意味で「創造」はできない人でもできる可能性は高い。そして自ら発見することができれば、少なくとも「ものマネ」は超えられる。情報化社会においては人間の証として創造力が最も重要視されることは言うまでもないが、発見力も重要な能力である。AIはあらかじめプログラミングされている範囲でしか「目の付け所」を持ちえない。しかし発見力があれば、想像だにしなかったものも見つけることができる。

発見とは情報エントロピーを下げる行為という意味においては、創造に次ぐものである。自分の中だけで全てをゼロから生み出したわけではなく、発見する対象という「外部的存在」が必要だが、発見する前と後ではそれなりにケイオスの秩序化が起こっているのも間違いない。創造と発見の間には歴然とした情報エントロピーの差はあるものの、努力と学習で何とかなるものではないという意味では、明確に人間の証となる。

すなわちAIの時代においては、人間のヒエラルヒーは「創造的人間」>「発見的人間」>「AIコンピュータ」>「秀才的人間」という確たるものがあり、コンピュータを使うのかそれともコンピュータに使われるのかという構造的な違いが存在するようになる。まさにAIはコンピュータの上に人を作り、コンピュータの下に人を作るのだ。40年以上前のマイクロコンピュータ革命の頃夢想した社会が、今やっと手の届くところまでやってきたのだ。


(20/08/14)

(c)2020 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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