さらば法治主義





法治主義は、まさに理性の産物である。予定調和で論理的・演繹的に決められた結論に向かい決められたステップ通り進むことが最適解とされた、近代社会、産業社会にふさわしいものである。しかし、21世紀に入りスキームが変化した。情報社会ではAIの進歩により論理的・演繹的なスキームでの解決は情報システムの独壇場となり、想定外の事態に臨機応変に対応しソリューションを見つけることこそ人間に求められる役割になった。これは前例でがんじがらめにする法治主義ではなかなか対応できない。

これだけでも21世紀の情報社会に最適化した新しい政治制度が必要となることは理解できる。しかしそれ以上に問題なのが、この場でもこのところ積極的に主張している、情報社会においては想定外の事態に最適なソリューションを提供できる人間と、そうでない人間とが、情報システムを間において二分されてしまうという現象である。少なくとも民主主義をはじめとする近代の政治システムは、タテマエとしては人間が均質であることを前提にしてきた。その前提自体が情報社会の到来により崩れてしまうのだ。

新しいシステムの可能性を考えるためには過去の歴史を振り返り、そこから学ぶ必要がある。実は人類には「差のある社会」、すなわち階級社会をどう上手く運営するかについてのノウハウがある。というか、人類の歴史のほとんどは階級社会であった。考古資料しかない原始時代はともかく、歴史記述が残っている古代・中世まではそういう社会だった。そのような時代の政治形態の主流を占め、近世までの何千年かに渡って人類社会をウマく治めてきたのが徳の政治による人治である。

確かにこれまでも直感的には感じて何度もここで語っていたが、情報社会にこそ「徳の政治」はふさわしい。まさに臨機応変な最適解を即座に出せる仕組みだからだ。社会が情報社会になるとともに、パラダイムシフトに対応したよりよい政治システムが作られてしかるべきである。それを考えてゆくために、まず世界の多くの国で現在取り入れられている法治主義がどういう目的を持って、どういうプロセスで生まれたものなのかを見てゆこう。

天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らなかった。それは産業社会が成り立ち、人間社会に経済的な急成長をもたらす上でカギとなったことであり、歴史的にも重要なことである。しかし21世紀に入り情報社会の時代が到来すると、この自明とも天の摂理とも思われていたことが大きく揺らぎ出す。このコーナーでも何度も取り上げているように、コンピュータは人間を「コンピュータ以上の存在と、コンピュータ以下の存在」に歴然と分けてしまうのだ。

1970年代にマイクロコンピューターチップが登場し、それを利用して小型でデスク上に設置できるパーソナルコンピュータが生まれた。それまでの大型ホストコンピュータの時代は、コンピュータこそ存在し利用されていたものの、一般の人々の生活とは接点がなく、また一人一人が直接使うものでもなかった。しかしパーソナルコンピュータが登場したことで、この構図は大きく変わり現代のような身近な存在となるきっかけとなった。

人々が直接コンピュータを自分の目的に基づいて使い、個人の能力を拡張する手段として活用することができるようになったのだ。このような可能性は最初はパソコン・マイコン関係者の間で、大型コンピュータ的なカルチャーに対するカウンターカルチャーとして起こってきた。しかし個人の能力を拡張するということは、個人の能力差を拡張することにも繋がる。ことで、そしてこれは私は1980年代から一貫して主張してきたことでもある。

そして21世紀に入り、高度なAIが実現したことにより、それは予言から現実へと変わってきた。人間は平等だと声高に主張したがる人がいる。私も、基本的に人間は平等であると思っている。機会の平等が奪われることは差別であり絶対に許されるものではない。しかし、一人一人の能力差は歴然としている。何か結果を出した場合、その結果には必ず差が付いてしまう。しかし結果についてはその差をその通り受け入れることが平等なのだ。

そう考えてゆくと、「結果として」人に上下ができてしまう社会とは、そんなに問題があるものなのだろうかという疑問にぶつかる。近代産業社会は、民主主義的な大衆社会と相性がよかったため、経済が発展した国はどこも民主的な政治制度となった。民主主義は「まだましな政治制度」といわれたように、唯一絶対的な完成した政治制度ではない。常によりよいものにするための見直しを行ってしかるべきである。

日本人は不磨の大典ではないが、一旦決めた規範を墨守する代わり運用で骨抜きにしがちだが、本当の法治主義なら法自体を随時実情に合わせてバージョンアップすべきである。これまたいつも言っていることだが、本当に無抵抗主義で一切の武力を持たないことを主張するなら、護憲ではなく、解釈により自衛のための武力を持つことができる現行憲法を改正し、もっと厳しい条文に変えることを考えなくてはおかしい。

そもそも政治システムというものは、ある意味で情報システムである。議会制民主主義は、情報処理が不充分だった時代に、民意をできるだけ的確に汲み取り、それに基づいてなんとか上手に社会を運営しようとして作り出されたシステムである。それを担保するものとして、近代社会の成立過程と軌を一にして法治主義が確立した。情報社会においては、最先端の情報処理技術を活用して、もっとスマートな政治システムを構築できる可能性も大きい。

形式知化された、決められたことを着実に実行するのであれば、まさにAIはうってつけだ。法治主義はある意味、社会を「プログラム通り動かそう」とするやり方なので、まさにコンピュータとは相性がいい。コンピュータシステムは、プログラム内部にチェック機能を入れておけば、法律の抜け穴を利用して許認可利権を作ったり、天下りのおいしい資金を捻出する外郭団体を作ったりという、官僚がよくやる我田引水も見事に見破り退治してくれることであろう。

そういう意味では法治主義の理想形として大変すばらしいのだが、これには大きな問題が三つある。一つはAIによる処理が「想定外」の自体への対応に極めて弱いという点である。これはコンピュータが法律という過去の経験の蓄積に余りに忠実であるがゆえに、AI任せにすると現在は法律の隙間で人間がやっている臨機応変な対応が難しくなってしまうからだ。これは社会の進歩や発展への可能性も潰してしまうことになる。

次は、人間がコンピュータに命令されて使われることになってしまう点である。終わりなく変化のない日常はコンピュータにとっては屁でもないが、ある種の人間にとっては極めて精神的苦痛となる。多くの人間にとっては日常のルーティーンの繰り返しは楽で心地よく思うかもしれないが、企業化精神に溢れていたりやイノベーティブな人はとても耐えられない。これまた人類の未来に暗い影を投げかけることになる。

さらに先ほど述べたように、法治主義を取る以上法律と現実とに齟齬をきたすようになったら、法律そのものを臨機応変改正することで時代に対応することが必要である。コンピュータでいえば、想定外のインプットに対して対応不可能なバグが発見された場合、プログラム自体を書き直してアップデートする必要があるようなものである。しかし、コンピュータ自体がプログラムを書き換えるようにすると、大体の場合暴走してしまう。

そこはフェイルセーフの考え方から、事前に想定された対応の範囲内での「安全な書き換え」を超える書き換えは行えないようにするのが基本である。そうするとプログラムをアップデートするのは人間ということになってしまうが、これではAIによる処理の根幹のところに特定の人間の意志が介入する危険性を生み出してしまう。これでは法治主義の根幹であるアップデートのプロセス自体に矛盾をはらんでしまうことになる。

現実が想定内で収まらない情報社会だからこそ、法治主義的な対応では対処できない事案が増加し続けている。ここで重要なのが、あらゆる分野で秀才はコンピュータの役割であり、人間がやるべきものは天才しかできない領域という、AI時代の掟である。であるとするならば、政治や統治といった分野でも、同様に天才の能力が求められてしかるべきだ。天才とAIが組んでこそ、情報社会の可能性は一気に広がる。

そして、この政治や統治における天才こそ、徳の深い天子そのものである。そもそもそういう人間がいるのか、そういう人間であることを何によって担保するのか。いろいろ問題は残されている。しかし、理想論がここにあることは間違いなく、それをどうやって実現するかはこれから考えればいい。まず大事なのはパラダイムを変えることだ。そして人類の知を総結集すれば、そのための方法論は必ず見つけられるはずである。


(20/08/21)

(c)2020 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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