経験主義





聞いて学んで覚えたこと。それは知識や他人が経験したノウハウを、より少ない労力で会得できるという意味で極めて便利ではあるが、そこで学んだ内容が自分にとっての真理かどうかという保証はない。権威のある人から聞いたとか、先生から教わったとか、その情報に「肩書き」がついているというだけで、人間はあっさりその内容を信じてしまいがちだが、それが本当である保証はどこにもない。それだけに「勉強」する際には鵜呑みにせず、自分で検証する(公式を覚えるだけでなく、導き出してみる)必要がある。

それだけでなく、他の人にとっては真理であったことが、自分にとっても同様に成り立つわけではないのである。ユニバーサルデザインではしばしば問題となるが、カラーを使った識別だと、色覚障害のある人には違いがわからず同じに見えてしまうという問題がある。昔のモノクロ時代のデザイン作業をやったことがある人は、この感覚がよくわかっている。みんながみんな、同じ物を同じように見ているわけではないのだ。

それは絶対的真理があると思いがちな自然科学の分野でも起こりうる。たとえば台風の渦の回転方向はよく知られているように、北半球では反時計回りに、南半球では時計回りになる。地球の自転によるコリオリの力の影響という意味では同一の現象なのだが、それを知る以前の、たとえば小学生の夏休みの観察では、少なくとも観測データレベルでは観測者の立ち位置によって矛盾する結果が出てきてしまう。

「チバニアン」でおなじみになった、地磁気の逆転現象もそうだろう。その時期に人類がいなかったから歴史的には体験できてはいないが、千葉県市原市の地層は「磁石のN極が南を向く」時期が確かにあったことを示している。その時期に生きた人間がいたとしたら、その観測結果の記述は現代のそれとは真逆のものになっているはずである。ファクトを発見して、知識を書き換えられてこそ科学だし、そこに新たな発展が潜んでいる。

そういう意味では、よく昭和と平成の世代ギャップのネタとしてテレビのバラエティーなどに使われる「恐竜」観も科学の典型である。かつてのような「恐竜は環境の変化により絶滅した」という見方は「昭和の死語」になり、「恐竜は環境変化に対応して鳥類に進化した」と認識が変わった。中国の経済発展により主として中国奥地の砂漠地帯での発掘が進み、鳥への進化途中の新種の恐竜が大量に発見されたため、ミッシングリンクが埋まったのだ。

逆に、このような相対的な見方ができてこそ、科学は進歩するのである。という以上に、これができなくては科学とはいえず、それは単なる博学でしかない。そういう意味では、自ら発見して知ることが科学の基本中の基本であり、勉強して知識を学ぶこととは全く違う。理系のカリキュラムに基礎実験があるのは、実験手法の基本を学ぶと同時に、科学史を自らの手で再現し、実際に体験することでそれを会得するという意味も含まれている。

その一方で、こういう科学的な考え方を基本とすれば、自分が実践し成功体験を得たことは少なくとも自分にとって間違いではなかったことは確かだ。反証は一つ事実を挙げれば良いのと同じで、世間の定説や常識と自分の体験が違っていても、それはどちらも成り立つことを示している。少なくともそう考えることが、科学的なモノの見方に近い。勉強して覚えたこと、体験して得たこと、そのどちらを優先して信じるかが人生を大きく分ける。

人類の長い歴史を振り返れば、「教育システム」が確立し完備したのは高々有史以降の話である。伝承教育のようなモノを含めても、一万年以上遡ることはないだろう。そしてそういう有史以前の伝承は、個人レベルの経験を受け継ぐ仕組みであった。教育が「形式知としてノウハウが共有される」という意味としてとらえると、その始まりは文明や原始的な国家が生まれた数千年前ということができる。

これには文字の発明が大きく貢献した。伝承で継承する場合は、どうしても一子相伝のような形にならざるを得ず、多くの人にそのノウハウを伝えることが難しい。また同時に生きている時間があって初めて伝承できるという構造的な問題があるため、伝承内容自体は稗田阿礼の古事記のように神話時代からのストーリーを記録できても、その伝達という意味では著しく時間的制約があった。

文字に記録されるようになったことにより、記録された情報は時間軸から自由になり、いつでもどこでも誰でも(もちろん文章化されても「マル秘書類」のようなものはあるが)それにアクセスし学習できるようになった。いわば歴史の中で人類が得た経験はどれでも学べるようになったのだ。これは膨大な知識が利用可能になったことを意味しており、経験より学習というより効率的な道を選ぶきっかけとなった。

特に産業革命以降の近代社会では、科学技術の発展により生産力が飛躍的に増大し、経済も急速に成長した。このような人類史上かつてなかった急激な変化を目前にして、それに追いつきその成果を利用するためには、知識として形式知を身に付けることが最も効果的であった。このため学習とは形式知化された過去の経験を勉強することを意味するようになった。

さて、世の中はめぐって情報社会の時代となった。AIの発達により、形式知化された過去の経験を活用することは、人間が努力してやらなくとも、情報システムがスマートにこなしてくれる作業となった。これとともに情報処理作業における機械と人間との作業分担のありかたが変わり、人間には地頭の良さや発見力が求められるようになった。めぐりめぐって、知識より経験が重要になる時代がやってきたのだ。

昔から知識ばかりで経験の乏しい人は「頭でっかち」と揶揄されてきた。どの時代もどの分野でも、机上の勉強でつけた豊富な知識をひけらかすだけで、ほとんどフィールドワークをしていないにもかかわらず、権威ぶったり大きい顔をしたりする人は絶えない。だが、そんな輩も今やマジでコンピュータには勝てない。寺山修司氏の「書を捨てよ町へ出よう」ではないが、「勉強をやめよ経験をつもう」なのだ。これこそ21世紀的な教育のあり方といえる。


(20/09/11)

(c)2020 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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