他人基準





最近はSNS全盛となり、自分の「作品」を他人から評価されることに満足や喜びを感じる人が多い。他人が一杯「いいね」してくれれば、うれしくなったり、気持ちが落ち着いたりすることはよくわかる。それが高じて「インスタ映え」ではないが、とにかく他人の目を引きそうなものをアップロードしてなんとか相手からリアクションを多く得ようとする。その結果、本来自分がやりたかったことから大きく外れることもしばしば起こる。

たとえばそんな大盛りは食べたくもないしとても食べられないのだが、これなら絶対リアクションがあるとばかりにウケ狙いで注文して、それをSNSにアップロードしたりした経験のある人も最近では多いのではないだろうか。この例を見てもわかるように、きっちりとした自分の意見や主張を持っていない人は、つい他人からの評価を得ようとして自分が望んでもいなかった方に走ってしまいがちになる。

そもそも、「いいね」は挨拶ではあっても評価ではない。写真でも文章でもこと表現物の場合、他人からの客観的な評価とははっきり言って「金」である。本当に他人から評価されたかは、マネタイズできたか、その結果どのくらい収益があったかでしか計れない。だがそこに走りすぎると「迎合」が生まれる。評価軸が明確になるとそこに突っ走るのは人間の性である。自分が本当に作りたい作品ではなく、ウケ狙いの作品を目指してしまうのだ。

それはそれでビジネスとしてはありうる。しかし、自分の表現したいものではなく、ウケる作品作りを目指した時点で、表現者としての自分のアイデンティティーは失われる。自分が作りたかったものが、結果としてヒットしてしまった場合は問題ないが、明らかに受け手が喜びそうな「商品」を作り始めた時点で、その作品ははじめから大衆のモノであり、自分のものではなくなる。「『クロスローズ』で悪魔に魂を売り渡した」っていうヤツだ。

そもそも表現としての価値は自分で決めるものであり、他人から支持された量によるものではない。ここでもやはり「価値を自分で決められるかどうか」というのが大きな境目になる。自分の中に表現したいものがなく、自分としての価値判断ができない人は、いくら腕が立ったとしても結果的に自分の「作品」は作れず、売れ行きのいい商品しか作れないようになる。そしてその事実には気付かないまま、一生を終わることになる。

アーティストと職人を分ける分水嶺がここにある。自分の中に確たる価値観の基準があれば、他人から評価されたり支持されたりしなくても、自分として納得の行く作品を制作することができる。これがある人がアーティストである。逆にアーティストであるかどうかは、テクニックに左右されるものではない。素人は勘違いしていることが多いが、テクニックはつたなくとも、表現したいものが溢れているならアーティストなのだ。

その一方でいくらテクニックがあっても、自分の中に表現欲がないならば、一流の職人にはなれるがアーティストにはなれない。顧客や施主といったクライアントの要求をカタチにするのであれば、超一級の技を発揮してすばらしいアウトプットをもたらすだろう。しかし、それは商品ではあってもアートとしての作品ではない。作品に必要なのは、仕上げの技術ではなく、表現したい心だからだ。実はこの部分が一番大事なのだ。

自分の作りたい物を作るために、ビジネスとしての作品を作らなくてはならない人もいる。グラフィックデザイナーで結構活躍している友人たちの中にも、自分のために彫刻作品や陶芸作品などを作り、時々その個展を開いたりすることで自分の中のアーティストとしての活動とクリエイターとしての活動のバランスをとっている人は結構いる。そのバランスが取れている人は、アート作品の方でもビジネス作品の方でもすばらしい成果を出している。

ただ、自分の中に作りたいものがなく、そのため価値観の基準がない人は、自分のための作品を作ることができない。ただひたすらビジネスとしての商業作品を作り続けなくてはならない。このため残酷なことだが、そもそも自分の中に表現したいものや動機付けがない人は、努力を重ねテクニックが高まれば高まるほど、作品そのものの中に充実感が味わえなくなる。そりゃそうだ。そもそも「なぜ作るのか」という問いへの答えを持たないまま、技術を磨いてしまったからだ。

そうなると、ある種の自己撞着を起こし「○○道」を極めるがごとくに技術を高めること自体が目的化する。職人の世界が師匠と弟子の家元制度的になりがちなのは、技術伝承以上に、こういう自己評価の側面があることも見逃せない。そうでなく作ったものにこだわりがある場合は、どれだけ売れたかとか、いいねの数のようなレピュテーションとか、自分の外側で他人により客観的に定量化されるものにのみ、自分の目標を置くことになる。

これを増長するのが、表現したいものがある人しかわからない世界の存在である。音楽などで商業的に成功したアーティストのキャリアを、表現者でない人が傍から見ると、「幅広く支持され当たってヒットするのがいい作品」という勘違いが起きてしまう。この結果、もともと自分には表現したいものも表現する力もないのに、「いつの日か成功するんだ」と勝手に思い込んで、頑張るだけ頑張るという無駄な努力を繰り返し、自分を消耗してしまう。

矢沢永吉さんの自伝などを読んで勝手にあこがれるのは自由だが、彼は類まれな才能を持って生まれたからこそビッグになれたのであって、努力や運だけで何とかしたのではないということをちゃんと行間から読み取らなくてはならない。ここがなんとも因果なものだが、才能を持っている人はこれを読み取れるのだが、才能を持っていない人にはこの「行間」はどうやっても見えてこないのだ。だから、とんでもなく間違った泥沼に足を踏み入れてしまう。

世の中にはこの2つのタイプの人間がいること。そして才能のある人間は、人類誕生以来いつの時代も少数であったこと。この事実はどうしようもない。もちろん才能の有無はスペクトラムになっていて二項対立ではない。才能の塊という人間も極めて珍しいが、どんな才能も全くないという人間もほとんどいない。したがってこの問題は現実的には「かなり才能がある人間と、余り才能がない人間」との間の問題ということになる。

さらに、その才能がどの分野にあるのかという問題もある。「能力=才能×努力」である。「才能=0」の分野でいくら努力しても無駄汗かきというのは、いつも筆者が指摘している点だ。余り才能がない人間も、そのつたない才能がどこになるのかを(多分教えてもらって)自覚し、努力のリソースはその分野だけにつぎ込むのがいい。そのためには自分の才能がある分野をきちんと自覚する必要がある。

これからの時代は、努力の選択と集中というか、その領域の割り切りが重要になる。教育も知識を教え込むものではなく、どの分野に相対的に才能があるのかを見極め、そこにリソースを集中できるようより分けてゆくためのものとなるであろう。才能がある領域が金にはなりにくいこともあるだろう。しかし、AIの時代の人間の価値は産業社会の時代とは違う。金になることより、自分のアイデンティティーを持つこと。まさに教育はこのためにこそ行われるべき時代に入ったのだ。


(20/10/02)

(c)2020 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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