今またオウムイジメを問う





オウム真理教をターゲットに法律的にタガをハメようとする「団体規制法案」が協議されている。特定の組織や個人を念頭に、ごていねいに法律まで作って規制しようというのだから、恐れ入った話である。いまだかつて、そんな話あったのだろうか。まるで法律の私物化だ。そこまでごていねいな扱いをしてくれるなら、ヒトによってはハクがつくと思うかもしれないが、そもそもそういう連中ではない。オウムの問題については、このWebでも何度も触れてきた。そこでいつも言っているように、彼らはそもそも、被害妄想に取りつかれやすいいじめられっ子なのだ。世の中の全部、社会も国も人々も、すべてが彼らの存在や人格を否定しようとしていると思い込んでいる。

だから世間一般からすれば、ある種の常識の反映としてとらえられる行動も、彼らからすれば直接的なイジメとなる。いじめられっ子が、別にそいつのことを話題にしているのではなくても、悪い話をしていると、自分のことで陰口を叩いているのではないかと勝手に勘違いして、ますますストレスのテンションを高めるようなものだ。いじめられっ子がキれて事件を起こさないように、校則を厳しくするのみならず、特定の生徒について特別の校則を作って対応しようとすることを考えてみてほしい。これでは、逆効果以外のなにものでもない。

このままだとソフトランディングどころか、火に油を注ぐことにもなりかねない。そうなると現状ではなんとか収まっている社会への不信感や恐怖心が、いつ再燃するかわからない。かつて彼らが思っていた「恐れ」は、どちらかというと勝手な思い込みという面が強かった。そこがまた気の弱いいじめられっ子の被害妄想の面目躍如というところだが。だが、実際に彼らにとっての直接的危害が社会の側から与えられるようになってくると、そうとばかりはいっていられない。社会の側がとった手だてが、彼らの危機意識をますます高揚させてしまうことになる。

地域ごとに起こっている、ある種の住民運動によるオウム攻撃は、彼らに対するイジメとみえる。いじめられっ子に対するときには、こういう面ではナーバスになる必要があるというのに。エゴ対エゴでぶつかれば、必ずいじめられっ子は負けるし、そうすれば卑屈になる。その先にあるのは、あとはキれるだけではないか。なるべくそっちの方へ行かせないようにすることが大事だというのに。しかし、今度は本当に手を下す。それも国が法律を作ってまで。これでは、いわば専用の法律を作って、本格的にイジメようとしているようなものだ。

これではあまりにオトナゲないし、解決にもなっていない。彼らは、政治家や官僚が思うような、一人前の大人の集団ではないのだ。大人の社会の論理は通らないし、それを理解するような心の余裕もない。自閉症児に怒ってもはじまらないのと同じだ。これもまたいつも言っていることだが、本当に解決を図りたいのなら、そういう違うメンタリティーを持った人間の居場所を、国土のどこかに作るしかない。それがある種社会から切り放され、一般社会から見ると軟禁状態となっていても、彼らが幸せにいられるのなら、それはそれで一つの安定状態といえる。

ヤマギシ会の問題もそうなのだが、社会の多数派とは別のメンタリティーを持っていても、それを共有できる人達同士で閉じたコミュニティーを作りたいと言うなら、それでいいではないか。そのメンタリティーを、それがいやな他人に押しつけるのは問題だ。しかし、それを大事にしたいという人にとっては、親や兄弟が違うメンタリティーを社会常識の名の元に押しつけるのも、全く同じ罪だ。オウム対策にかけているのは、この相互性だ。オウム事件で名をはせた評論家も、身内を事件で殺害されたとしてマスコミによく現れる老婦人も、この点では全く同罪。同じ穴のムジナだ。

どんな意見があってもいいし、どんなメンタリティーを持っててもいい。但し、それは自分が信じる限りにおいて自由なのであって、他人に強制しないこと。これを彼らに納得させることが、本当の対策だし、ソフトランディングなのだ。このためには、社会の側が、そういうフレキシビリティーを持ち、心のキャパをひろげることが先決になる。このままでは、同じレベルの似た者同士が、イジメる側とイジメられる側に分かれていがみ合う、差別問題にも通じる見にくい構図から抜け出られない。鶏と卵ではない。多数の側が先に広い心を持たなくてははじまらないのだ。


(99/11/12)



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