「面白い」人生





世の中は「面白い」で成り立っている。面白いからこそチャレンジがあり、面白いからこそ前進がある。歯を食いしばって汗を流して頑張ることが意味あるのは、先行しているベンチマークすべき相手が存在し、追いつき追い越せが至上命題となる後発のチャレンジャーだけ。だからひとたび自分がトップに立ったら、そのポジションをキープするモチベーションは、外側を向いた汗と根性ではない。ひたすら自分の内面にある理想を追い続けて実現する夢の力だ。

まさに「追いつき追い越せ」で高度成長を実現した日本経済が、バブル期に「Japan as No.1」と称せられるようになると、一気に目標を失って失速し失われた10年を迎えることになったのはこのためであるい。そう考えて過去を思い起こすと、「マジメな努力」は「ネクラ」と言われて、80年代にはすでに若者の間では意味がなくなった。そこで日本社会の基準が変わっていれば、世界の勢力図は一変していたかもしれない。

ところが、技術でも経営でも社会の中枢にいた団塊世代以上の人達は、高度成長期の成功体験から抜け出せず、こういう状況下でも発想を変えられなかったため、「次のベンチマークすべき相手」を見つけようとしていた。どんな困難も「汗と根性」で乗り切れると信じ込んでいた。それが日本経済の失速をもたらし、多くの大企業が高度成長期からバブル期にかけて蓄積した有形無形の資産を全て吐き出してしまった。

流石に21世紀に入ると、段々と状況が変化してくる。00年代から「芸人」が目指すべき道になったことなどはその現れであろう。苦労と努力の末に人気スポーツ選手になったり、スタータレントになったりするのは時代遅れ。持ち前の知的瞬発力の切り替えしで一気に場の空気をつかむ「才能」にあこがれるようになったのだ。ユーチューバーも、自前でオンラインの舞台を持っている芸人と考えれば、その人気の構造も理解しやすい。そこには、一貫した流れがある。

まさに、努力する、勉強するは意味がなくなったのだ。「汗と根性」では、いくら頑張っても笑いは取れない。笑いの源はただ一つ、本能的に「面白い」をつかまえられるかどうかにかかっている。もちろん人気芸人も自分の芸を磨くために絶え間ない努力はしている。だが、それは類まれな才能があってこそ意味があること。いくら努力しても、才能がなくては誰も笑ってくれない。あまりの才能のなさにみんながバカにして笑われてしまうというのはあるかもしれないが、それはイジメで芸ではない。

「面白い」ことができるかは、ひとえに才能に左右されるワザなのだ。そして「面白い」ことが評価されるかどうかの分かれ目は、その社会が、開発途上国の貧しい社会なのか、先進国の豊かな社会なのかという違いにかかっている。豊かな社会になれば、人々はより充実した人生を送ることが人生の目標となる。それは楽しく幸せな人生ということができる。それを実現するためのカギこそが「面白い」ことであり、人々は「面白い」ことをもとめ、それにお金を払うようになる。

飢えている社会では、生きてゆくこと、食ってゆくことに必死なので、面白いことを楽しむという余裕がない。このような発展段階においては、世の中のボリュームゾーンはそもそも面白い人生を送れていない。この世に生まれてしまった以上、命を繋いでゆかなくてはならないが、それは大変つらく苦しいことであり、生活の全てがそこで規定されてしまう。だから世界宗教の多くがそうであるように、現世の苦行に耐えて、来世で救済されることを願って生きることになる。

もちろん、こういう時代でも生活面・金銭面で余裕のある王侯貴族は、面白いことを楽しむ余裕があった。というか彼等ぐらいしか面白いことができない程度の社会的富しかなかったともいえる。このため彼等は芸術や文化の領域でパトロンとなり、画家や作曲家を召抱えたり、世界中の工芸作品や珍しい文物を収集したりした。それらの作品やコレクションが、これまた王侯貴族の屋敷だった各国の美術館や博物館の主要な展示品になっている。

さて、産業革命以降生産力が飛躍的に増大すると共に、近代社会はかつてないほど豊かな社会となった。ヴィジョナリストとしてのマルクスが予言したとおり、生産力が飛躍的に高まることで世の中の富は増大し、より多くの人がその恩恵に預かれるようになった。20世紀とともに具現化した大衆社会は、20世紀末が近付くと共に高度大衆社会化し、消費者としての大衆がそのバイイングパワーで世の中の格付けを決める「大衆貴族社会」を現出させた。

ここに至ると、ごく一部のセーフティーネットを必要とする人以外は、みな「面白い」ことを求めるようになる。ある意味、マルクスの予言は当たったと言うことができる。1980年代の漫才ブーム以来、日本のエンタメ界における「芸人」のポジションが上がり続け、2000年代になるとタレントを目指す登竜門としては第一の道となったのも、その背後にはこういう「大衆貴族社会」化が大きく影響している。面白いことを求めるマーケットが爆発的に拡大したからこそ、そこに多くのマネーが流入するようになったからだ。

そういう意味では、人気芸人を見ていればわかることだが、「面白い」は天性の才能で努力ではどうすることもできない。その証拠に、努力でウケた芸人はほとんど「一発屋」で終わってしまう。準備をして練り上げてというスタイルでは、臨機応変の瞬発力が出ない。そして現代の芸人に求められるのは、この知的瞬発力である。どういう状況の中でも、ベストエフォートを出せるというのは、勉強や努力ではどうしようもなく、天性のリアクションでしか対応できない。

さらには「前門の狼、後門の虎」ではないが、努力でポジションをキープしている連中にとっては、AIという手ごわいライバルが足元を狙っている。ダジャレを連発したり、大喜利で安定した返しを出したりするのなら、AIでも相当に面白いリアクションが出せるはずである。これにチャレンジしていないのは、理系の研究者にこういうギャグセンスがないというだけであり、吉本興業あたりがAIを駆使した「VR芸人」を開発すれば結構ウケると思う。

才能のある人間にはかなわない。その一方で努力ではAIにかなわない。それならもう、プレイヤーを目指すのはやめにした方がいい。あんたもオタク、純粋消費者を目指せばいい。ある意味芸人は、「推し」をしてくれるオタクファンがいるから成り立っている。メジャーにならなくても、いつも来てくれるファンがいれば、地下アイドルとして成り立つ。というより、過激な芸人はそういう濃いファンの支持で成り立っている。

こと「お笑い」については、消費者がいなくては供給者は成り立たない。ファインアートの創作であれば、音楽でも絵画でも彫刻でも、観客がいなくても創作者が一人でこつこつ作品を作り上げることは可能だし、表現したいものが心の中に溢れている表現者なら、それで次々作品を生み出すだろう。しかし、芸人は一人ではできない。自分のネタで自分がウケるというわけにもいかない。

最近は、「萌え」から「推し」の時代になってきた。「欲しいものリスト」ではないが、自分が好きなタレントを支援することがファンの証になっているのだ。もうそれでいいではないか。努力で表現者を目指す時代は終わったのだ。努力して頑張るより、純粋消費者になって「推し」た方がいい時代になったのだ。幸い日本も社会的インフラの蓄積がある分、高望みさえしなければそれなりに生きては行ける。

かつて00年代に筆者達の生活者インサイト分析チームはは大衆社会の到達点として「大衆貴族」というコンセプトを提示した。自分はクリエイトしない純粋消費者である「大衆貴族」が社会の主役になり、マーケットをリードするようになるという予言だ。確かにその時代は到来した感がある。そしてそれが、AI時代における新しい生き方の主流となる手応えさえ感じられる。人間社会は捨てたもんじゃない。もっともその分、創造ができる人はより価値が高まるのも確かだが。


(20/11/20)

(c)2020 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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