ヤクザに学べ





己の腕と才覚しか頼るものがない、マッドマックスのような世界。超弱肉強食の、生きるか死ぬかの実力競争。これこそ、市場原理のあるべき姿の理想だ。21世紀のグローバル社会を規定する規範は、ここにある。米中関係では、イデオロギーや人権問題では激しい対立関係が目立っているが、超市場原理を志向しているという面では全く一緒である。経済原理という面では、世界は他に選ぶべき道はないのだ。

ところが、これは日本の秀才エリートが最も苦手としている世界である。自分で肚をくくらない秀才エリートでは、こういう市場原理の世界には歯が立たない。だからこそバブル期にGDPこそ世界第二位と高まったものの、実際のマーケットでは負け戦の連続であった。では、日本の中に己の腕と才覚だけに頼る世界がないのかといえば、そんなことはない。ある意味、日本の社会の中に組み込まれていながらヤクザの幹部の世界はそれに近いものがある。

まあヤクザでもカタギでも、下っ端の雑魚は組織頼りで言われたことをこなすだけというのは、日本社会である限り共通であろう。しかし、ヤクザのトップはリーダーシップのあり方が違う。それは本当の「親分」になればなるほど、自分も自分の子分も全て自らの責任で守っていかなくてはならないという、戦国時代の一城の主のような責任がついてまわるからだ。それは外道の渡世人であるが故の宿命とも言える。

一方カタギは、リーダーであってもルールを守っている限り、より大きな社会集団から守ってもらえる。会社の上に業界団体があり、その上に社会や国家があるようなものである。日本は実質的な立憲君主制である象徴天皇制のもとの議院内閣制をとっているので、行政の責任者である内閣総理大臣といえども、自らの責任において何かを決断することはほとんどないし、やろうと思ってもいろいろなしがらみがあって簡単にはできない。

つまり日本のカタギ社会は、責任を曖昧にする重層構造の中に守られているのである。この「マトリーシュカ構造」がある以上、本当の意味で自己責任で肚をくくらなくとも、ある程度のリーダーシップを取ることができる。日本の組織リーダーは、この構造に慣れすぎてしまっていて、責任を取ったり決断をすべきときに、それができないジレンマに陥っている。いわゆる「サラリーマン社長」の多くがそうなっている。

だからこそ、社の屋台骨を揺るがすようなトップのリーダーシップが問われる事件が発生すると、たちまち機能不全を起こし、会社自体が沈没することも珍しくない。実はこちらの方がよほど大きな問題で、このような体質があるがゆえに、日本の大企業の多くがグローバルで通用しなかったり、判断の甘さから煮え湯を飲まされたりしている。日本の外交が国際政治の場で全く空回りしているのも、やはり同じ理由から引き起こされている。

一方ヤクザはそもそもそういう社会構造の外側で生きている人達だ。利権構造だったり権力構造だったり、既存の秩序に守られているのがカタギの世界であるとするならば、その外側でそれと対立している生き方がヤクザである以上、全く違う世界観のもとで生きていることになる。そしてそれは長い歴史の中で、日本的な「甘え・無責任」な社会とは大きく異なる世界観をはぐくんできた。

より古い時代、たとえば江戸時代においては渡世人はまさにアウトローであった。既存の階級的社会秩序の外側で生きる階級外の人間であった。いや、人間としても認められていなかったといってもいいだろう。当然誰も守ってくれないし、そもそも社会そのものから疎外されている。それでも彼等は彼等なりに自分達の世界とそのルールを作り、カタギの世界の外側で、自主的に独自の世界を築いてそれを脈々と受け継いできた。

余談になるが、バブル期にはヤクザ専門の車上泥棒という人たちがいた。ヤクザは当然警察には訴えない(訴えられない)し、泥棒に入られたことがバレると仲間内でも気恥ずかしいので内密にしておく。もちろん犯行最中に見つかったらタダでは済まないが、それさえなければ全体としては結構リスクが低いし、そのワリには現金社会なので獲物も大きいので、けっこう泥棒業界内の一ジャンルとして根強くはびこっていた。

ただ、こういう人たちがお縄になるのは、不動産屋・芸能関係者・ギョーカイ人など、その風体や乗っているクルマの様子がヤクザそっくりのカタギのクルマに手を出してしまった時だ。そういう人は格好こそヤクザだが、生き方はカタギである。だから当然警察に被害届を出す。手口も荒っぽいので証拠も多く残っており、訴えられれば、あっさりお縄になってしまうという。ぼくも当時取引があった、どうみてもスジ者の外見をした制作プロダクションの社長からこの話を聞いたものだ。

さてそんな時代においては、カタギ中心の社会の中で自分たちの居場所を確保するだけでも、莫大なエネルギーが必要になる。もともと、江戸時代は近代とは違い、武士階級のように自ら責任を取って自分のアイデンティティーを守る人達がいた時代である。そんな中で、体制秩序の外側にいる人間だった渡世人は、既存の体制側からも、アウトロー同士の抗争からも、自分で自分の身を守る以外に生き残る方法はなかった。

異質の社会が同居する緊張感の中で、自ら自分のみを守って居場所を作る。これこそまさにグローバルなやり方である。驚くことに、日本社会の中にもそういう人達が存在していたのである。外国の事例を参考にすると、どれを取り入れてどれはローカライズするかが難しく、ともすると外国一辺倒の「出羽守」になってしまう。その点、ヤクザは正真正銘の伝統的日本人路線である。その中で、自立・自己責任のリーダーシップを発揮しているのだから、これは極めて参考にしやすい。

それだけでなく、ヤクザ的な生き方やり方がグローバルに通じるのは、かつてバブル期からバブル崩壊期に企業舎弟を中心に海外進出を遂げ、アメリカでもマフィアより強力な「YAKUZA」として名を馳せたことからも理解できる。21世紀の変動するグローバル社会の中で、日本が生き残るための秘策。それはヤクザの生き方、ヤクザのビジネスモデルの中にある。「ヤクザに学べ」、これこそ日本らしさを保ちつつ21世紀を渡り歩くためのキーワードだ。


(21/03/12)

(c)2021 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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