テロリストの教え





命を大事にするヤツにはチャンスはない。ハイリスクハイリターンとは、人生においては命を懸けることでたぐいまれなチャンスを手繰り寄せることだ。自分が死んでもこの夢を実現させたい。それは視点を変えればこれが実現しないのでは自分が生きている意味がないということになる。そういう意気込みがなくては、世の中を変えるような大きなブレイクスルーは作れない。運とは、命を懸けて自分で可能性を切り開く中から生まれてくる。

命懸けといえば、その際たるものは自爆テロだろう。文字通り命と引き換えに成果を得るものだ。それに匹敵するぐらい、すべての逃げ道を断って全身全霊をチャンスにかける。「死ぬ気でやる」というヤツだ。それほどの意気込みがあってこそ、針の穴のようなチャンスを自分の籠中のものとできる。まさに成功はその代償として手に入るものだ。世の中の会社員でここまでの意気込みで仕事をしている人がどれだけいるだろうか。

もちろんテロは良くないことだが、少なくとも命を賭してその信念に殉じるという意気込みは、批評ばかりで行動しないインテリや有識者よりは評価できる。もしかすると、その文字通り「命懸け」という真摯な態度には共感を呼ぶ要素があるかもしれない。確かにテロ組織は社会の大多数を敵に回すものの、宗教の布教のように一定の熱烈な支持者を集めることができている。それがあるからテロ組織が根絶されない。

その対極にあるのが秀才だ。秀才の問題点の一つとして、ヤバくなりそうになったら逃げることばかり考えて、肚をくくって命を懸けて対処しようとしないところがある。あるいは、最初からリスクを取らずに済むよううまくごまかすにはどうしたらいいかだけを考えて、実際には手をつけずに素通りしてしまう。またサラリーマン社会では、こういう調子のいい人間ほど出世してポジションが上がる傾向が強い。

肚をくくって問題と四つに取り組み、失敗しても最後に自分にも生きるチャンスがあった時のことを考えて、脱出する算段をするのならまだいいだろう。死ぬ気でやるといっても、目的は成功することにあり、必ずしも死ぬこと自体が目的ではないからだ。ところが、秀才は最初から逃げることばかり考え、問題と真摯に取り組もうとしない輩が多い。こういうのが、秀才のいけない点である。知識と知能をフル回転させ、最初から逃げ道ばかり考えているヤツも多い。

こういう連中が出世してトップになってしまった日には目も当てられない組織になり下がってしまう。日本の大企業のサラリーマン社長というのは基本的に世渡りのウマさだけで上にひっぱり上げられて、禅定によりトップに上り詰めてしまった連中ばかりである。今の日本の官庁や大企業の組織が疲弊し、不祥事が続出しているのも、こういう仕事をしないでごまかしの成果を挙げるこズルい秀才がエリートとして跋扈しているからに他ならない。

勉強した成果によるモノまねで、それなりに業績が上がったのは、右肩上がりの高度成長期の恩恵である。時代は変わってしまったにもかかわらず、その時代の発想から抜け出られない人があまりに多い。それは秀才本人だけでなく、秀才エリートを評価し重用する周りにも言えることである。そもそも教育体系が産業社会時代のニーズにオプティマイズしたもののままになってしまっている点も問題だ。

かくして世界的には、マイクロエレクトロニクス革命が起こり社会の情報化が始まった1980年代には、産業社会的な秀才重用からのパラダイムシフトが起こり始めていたにもかかわらず、日本では半世紀近くも「アンシャンレジーム」が残存し続ける結果となった。そして数々の制度疲労が起こり、さしもの守旧派大国日本においても、もはやこの「アンシャンレジーム」に固執できなくなってきているのがこの数年の現象である。

日本社会にも天才は確実にいるが、それを見つけ出して重用するのはなかなか簡単にはいかないだろう。しかし「命懸け」でリスクを取る人間はそこそこいる。社会を変えてゆくには、こういうテロリスト的な英雄性を持った人材が不可欠である。まずはそういう「命知らずのバカ」に思いっきり舵取りを任せてしまうのがいいだろう。本当に命を賭けるのなら、世の中は確実に変わる。維新の志士達もそういう連中だったじゃないか。


(21/03/26)

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